2023年01月04日

タロットに聴く♪2023・令和5年のヒント その2

出会えた時空間が一期一会サロン
~ 海岸への小径 ~
タロット読み人TARAです。


*その1からの続きです。

 カードからの全体メッセージはこちら ☛ その1へ


KIMG1334.JPG


その2では、5枚を詳細に解説してみます。


1枚目は:今の焦点・問題点

 『引き延ばすこと』


C4.jpg

行き詰った感は、やりたいことを後回しにしているから。
ハートからのサインがまだ残っていて、
そのビジョンをかろうじて胸に描いていますが、
モノクロに書き消えそうです。


私に湧き上がってる思い・アイデア・ワクワクすること、
やりたいと思っていることをこれ以上先延ばししないでと。

状況は人それぞれ、タイミングそれぞれに

*このことね!とすぐわかる人もいれば、
*あきらめたようでいて、あきらめきれないことがある人
*構想〇年のアイデアを温め中の人もいるでしょう、

それを行動に移していく時。

今年中より今月、
いえ、今日こそがそれに取り掛かりましょうと。

または再び何か1つのステップを始めていくことで、
獏としていることがもっとフォーカスさたり、
クリアになって、あっさりと動き出すはずです~


2枚目は左側:内なる(気づいてない)ヒント

 『条件付け』

B15.jpg


人ではなく、
羊の群れと羊を被ったライオンでたとえられています。

本来の私らしさであるライオンという個を
常識や教育で扱いやすいようしつけられた羊として、
社会の理想の羊を縛って纏い、羊を生きてる姿です

*周囲の様子を伺うことをやめましょう
*常識的な意見を私の意見として採用していることに気づきましょう
*集団の正解や形式を優先していることで疲れていませんか

個性を失わせていたものは、
こうなったほうが社会的に有利・よいという、教育・教え。

幼い私を守り育ててくれていたものかもしれないけれど、
それはもう今の時代や、今の私には
フィットしていないものであること。

そのほころびに私も気づいているし
周りに先に気づかれていることもあるでしょう。

羊の皮をかぶっているその縛りをとることが、
問題となっている、私の倦怠感から、虹色を取りもどします

*ある意味見たくない部分が多いので、
 まずは気づいていくところから
*うすうすわかっている場合は、羊でいる姿を否定せずに
 ライオンの部分をしっかり認めてあげるところから
*頭ではよーくわかっている場合は、
 吠えるなり、目だってしまうなりの行動で本領を発揮しよう~


3枚目は右側:外にある(見える)ヒント『源』

F1.jpg


私を生かしている/活かしてしている原動力は、
人間社会のシステムよりもさきに、生命エネルギー。

形あるもの、見えるものを生みだすもとは、
見えないエネルギーで、もっと巨大で尽きない。

立ち返るなら、その源に同調していく方へ。

つながりの抵抗がないところから
無条件で無尽蔵なところからチャージは起きてくる

太陽系にある地球に住む存在なのだから
日光を浴びるだけでも違ってくるでしょう~🌞



4枚目は下:解決するための行動・鍵

『政治』

C7.jpg


見極めるヒントを知らせてくれるものは、
自分のなかに起きてくる駆け引き・二面性、多面性

自分のハート、感情、感覚または体調などを無視して、
いい人を演じていませんか?

または

自分に被害がなくても、
批判や気分の悪さなどが出ることはありませんか?

(あるあるです)

そんな時に、私のなかの社会的採用ルールがわかる時。

その2つの顔は、
本心ではない無意識な忖度だったり、
いつのまにか立場を乱用しているかもしれません

どちらも「条件付け」の羊を演じてしまってる
ということが多いから

よーく自分自身を調べると、
相手は関係ない❣といという気づきにつながります。

このカードは見た目もイヤ~な感じですが
 
  内なる宝 

 =このカードには描かれてない一面

 =「条件付け」のライオン

 =本質的な自己に気づけるチャンスともいえます。


5枚目は上:近未来的な私・気づき

『独りあること』

B9.jpg

「先延ばし」している時にあった、

物憂さのなかにある失敗がないという安全さ、

多数の意見である「条件付け」の羊たちがいない寂しさ。

時には身近なパートナーや肉親とも違う選択があり
過去の私に時に引き戻されそうになっても、
今はその当時の私の波長ではない。

私の本来の個性と価値観や好みがより鮮明になっているから、

多くの人のために敷かれたレールに興味をもたなくなったり、
また新しい道がみえてきたりする。

誰かの後ろをがんばって追いつき、進むのではないことが
少しずつ自信や普通となっていくから

気づきも喜びも恐れもまた質が変わってきたり

独り歩いている人に出会うことが増える
また、ライオンにであい、しばし道中を共にしたり
羊の中いてライオンでいる独りを過ごせるようになっていく

ハートの虹が光に
光がまた虹にかわりながら

物質と精神

時に成功という形
時に失敗という形をとるかもしれないけれど

それはその時の状況判断にすぎなくて
決められない・正解のない進行形

わからないをわからないまま深く進んでいけばいい。

☆彡

長くなりましたが、いかがでしょうか?


先行きがわからない2023にかなり切り込んでて
直球勝負ともいえます。

ひとことで言うなら

「いいかげん己でいけや、充電保障。」

けっしてネガティブではないのですが、
淡々と削ぎ落していく感じで
楽しさや明るさみたいな装飾がない。

遊びっぽい部分がないかな~と
追加で1枚引いてみました。

その3へ続きます ☛ 


posted by TARA at 03:48| Comment(0) | 今日のタロット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月03日

タロットに聴く♪2023・令和5年のヒント その1

出会えた時空間が一期一会サロン
~ 海岸への小径 ~
タロット読み人TARAです。


G暦2023年・令和5年

あけましておめでとうございます㊗️

KIMG1326.JPG
*1月1日の庭の風景


こちらは12月23日未明から大雪になり、

KIMG1239.JPG
*12月23日夕方くらいの風景

大部分は溶けたとはいえ、北側や日陰になる部分、

屋根から落ち積もった雪などが残る年末年始となりました。


太陽が出れば外は暖かく、

すごしやすかったお正月三が日もはや今日まで。

明日から少しずつ、ゆったりとした静けさも

ゆるく日常に戻っていきそうです。

G暦ではありますが、新しい年を迎える時

個人のビジョンや目標などをもっていればなお

心構えやアドバイスなどといった

ガイドになるようなものがあればいいなぁと感じますよね。


本日1月3日がタロットの初引きにあたり、

ブログやFB投稿を見てくださってる皆さまに向けて

【令和5年を迎えるにあたってのアドバイス】

を聴いてみました。


「ずばっと聴く♪」という

5枚のカードを使ったフォームです。


KIMG1334.JPG


メッセージ:

行き詰った感をもったままぼんやり生きるのをやめる時。

社会的模範を演じることなく個性へシフトし生きる

ルールではなく生命エネルギーにシンクロしていけば

縛りは幻だったことがわかる

普段演じてしまういい人の私と、ふと現れる嫌な私は

どちらも嘘の私。

本質の私の輝きは生命エネルギーと同じだから、

嘘や迷いが消えていくほどに身軽になり、


向かいたかった私のゆくべき道を照らす。


承認を必要としない生き方へ、

寂しさと独りの違いを、体験していこう。


☆彡


まずはまとめてみましたが、いかがでしょうか?



2021年のアセンション以降でも

価値観のシフトや二極化

みずがめ座の時代など

いろいろと大変化を言われ続けて10年が過ぎ

精神世界・スピリチュアル業界のすそ野は増えました

社会的なこと・国際規模の出来事も大きく

あらゆる面での多様化と細分化

常識は非常識に

非常識が当たり前に

いろんな現象にはすぐ名前がついて

流行し陳腐化し風化するスピードも速まり

問題だけが形を変えて複雑化していくような

わかっているようで、いろいろと麻痺しているだけのようで

終わったようで終わってなくて

始まったようで行き詰まりのようで

ひどさが日常化してるのかもと感じたり

大丈夫と感じたり

新しさに期待したり、

古い価値観に引き戻されたりと

イマココよりも

イマドコにさ迷う

行きつ戻りつつなtaraには、ずばっと刺さりすぎです⚡


対面ですと、対話しつつ進めていきますが

不特定多数の方向けのため

重複するところもあるかとおもいますが

カードごとに細かく読み解きを続けます。


読み解きが長くなったので、その2へ ☛ こちら♪ 





posted by TARA at 23:00| Comment(0) | 今日のタロット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月01日

OSHOの講話 61


F1.jpg

〈生〉は

ひとつの有機体だ。

何ひとつ

分割されてはいない。

あらゆるものが一体だ。

もし、

それを

分割されていると

考えるなら、

その分割は

マインドによって

押しつけられたものだ。

さもなければ、

あらゆるものは

混ざり、溶け込み、

他のものの中に

融合している。

これが

四六時中

起こっていることだ。

それが

見えないのは、

人が言葉によって

完全に

盲目にされているからだ。

果物をひとつ食べるとする。

その果物は自分の血になる。

その木が自分に混ざり、

境界はなくなった。

それにその果物は

それまでたくさんの人の

血であったかも知れない。

いろいろな動物や、

いろいろな植物や、

さまざまな岩で

あったかも知れない。

果物であるこのエネルギーは、

常に存在の中にあった。

融解し、

溶け入り、

溶け出し、

これからあれへと移動し、

あらゆる境界を

通りすぎながら。

どんな現象でもいい。

ちょっと見てごらん。

樹に実ったあの果物は

何をしているのか。

科学者は

果実がやっていることは

奇跡だと言う。

それは、

大地の変容、

日の光の変容、

水の変容だ。

それは奇跡だ。

何しろ、

土を食べることはできないし、

太陽の光を直接

食べることもできないのだから。

この果実、

林檎は奇跡を行なっている。

それはあらゆるものを変容し、

人が吸収できるような物に

しているのだ。

かくして、

それは

人の血となることができる。

そしてこのエネルギーが、

常に動いて来ている。

それは

いつもそこにあったからだ。

エネルギーの全体は

同じままだ。

どこにも行く所がないのだから、

そのエネルギーは

多くも少なくもなりようがない。

宇宙には

何ひとつ加えられもしなければ、

そこから

何ひとつ削り取られることも

あり得ない。

どこへ持って行くと言うのかね。

全体は同じままだ。

ある時、

その果実は土の中にいた。

それを食べることなど

できるはずもなかった。

その果実は太陽の中にいた。

そのビタミンDは太陽の中にあった。

今では、

その果実がそれを吸収している。

今や大地は変容した。

奇跡が起こっている。

奇跡を見るために、

どうして

手品師の所になど行くのか。

それは起こっている…

土が美味しい果実に変わったのだ。

あなたがそれを食べれば、

それは血になる。

その血は絶え間なくかけめぐり、

精子を創る。

今やひとつの種が生まれ、

それは小さな子供になる。

あの果実、

あの林檎は、

今では子供に変わっている。

どこに境界がある。

木はあなたの中に移り、

太陽がその木に移る。

海がその木に移り、

あなたが子供に移り、

それが続いて行くのだ。

あらゆるものが動いている。

あなたの中にある息は、

少し後には私の中にあるだろう。

息は生命だ。

だから、

あなたの生命と私の命は

別物ではあり得ない。

同じ息をあなたも呼吸し、

私も呼吸するのだから。

私が吐き出し、

あなたがそれを吸い込む。

あなたが吐き出し、

私がそれを吸い込む。

あなたの心臓と私の心臓は、

さして別ものではあり得ない。

それはまわりにある

同じ活力の海を呼吸し、

脈打っている。

私はこれを私の息と呼ぶ。

だが、

私がそれを自分のものと

呼び終える頃には

それはもう私のものではない。

それは動き、

棲み家を変えている。

今度は、

誰か別の人の息になっている。

人が、

自分の命と呼んでいるものは、

自分のものではない。

それは誰のものでもない。

あるいはみんなのものだ。

実在を見る者があれば、

その人には

全体が

ひとつの有機体であることが

分かるはずだ。

太陽は

あなたのために働いている。

星は

あなたのために働いている。

世界中の人々が

あなたのために働いている。

海は

あなたのために働いている。

そして

あなたも

その人たちのために働いている。

あなたが死ねば、

虫がその肉体を食べるだろう。

あなたは彼らの食物になる。

あなたは熟し、 死に、

誰か他の者の食物になるための

準備をしているのだ。

そして、

これはそうでなくてはならない。

あなたは実にたくさんのものを

自分の食糧にして来たのだから。

最後には自分が

彼らの食物に

ならなくてはならない。

あらゆるものが、

他の誰かのための食物だ。

それはひとつの鎖だ。

ところが、

あなたは生に執着したい。

では、

林檎はどうなのか…

林檎も生に執着したい。

小麦はどうなのか…

小麦も小麦のままでいたい。

が、

そうなれば、

生は終わるしかない。

生は死を通して生きている。

こちらであなたが死ねば、

向こうで誰かが生きる。

私が息を吐き出す、

誰かが息を吸い込む。

生と死もちょうど

その吐く息と吸う息の

リズムのようなものだ。

生は吸う息、

死は吐く息。

熟すれば、

あなたは大地の上に落ちる。

すると

虫があなたを食べるだろう。

猛禽類が寄って来て、

あなたを

啄(ついば)むことだろう。

あなたは

たくさんの食べ物を楽しんだ。

今度は

あなたが楽しまれる番だ。

あらゆるものが

溶け、出会い、 融合する。

だとすれば

何を思い煩うことがあろう。

これが

起こるべきこと、

これが

すでに起こっていることだ。

全体だけが生きている。

「個」とは偽りだ。

究極なるものだけが

生きている。

他はすべて

その中の波に過ぎない。

それは

やって来てはまた去る。

人が鼻の先の実在を見るなら、

突如として、

そこには何の問題も、

不安もない。

自分が生きていようといまいと、

全体は生き続けるからだ。

では、

自分の死など問題ではないのだ。

それなら、

自分の生だって問題ではない。

自分は全体の中で

何百万、何千万の姿で

生きて行くだろう。

時には、

自分は果物になるだろう。

これがヒンドゥー教の、

何百万のヨーニという概念の

意味するものだ。

ある時、

自分は獣だった。

またある時、

自分は昆虫だった。

またある時は木だった。

またある時は岩だった。

かくて生は続く。

だから、

ある意味では

あなたは誰でもないのだ。

そしてまた別の意味では、

誰でもある。

ある意味では

あなたは虚ろであり、

また別の意味では、

充満している。

ある意味では

あなたは存在しない。

また別の意味では

すべてでもある。

それは、

あなたが

切り放されてはいないからだ。

分離が不安をもたらす。

もしあなたが不安なら、

苦悩しているなら、

それは、

あなたが

自分を切り放されていると

思っているということだ。

あなたは自ら

不必要な問題を作り出している。

そんな必要はない。

なぜなら

全体は生き続けるのだから。

全体は決して死なない。

死ぬことができない。

部分だけが死ぬ。

だがその死は、

本当は死ではない。

それは再誕だ。

あなたはここで死に、

別のところで生まれている。

“一即一切の世界を歩み、

 識別することなく融解し去れ。

 この覚醒に生きることが、

 不完了を思い煩わずに生きることだ。”

それなら、

どうして完成について

思い煩う必要があろう。

それもまた利己的な目標だ。

これは本当に

深く理解されるべきことだ。

なぜなら、

宗教的な人々でさえ

完全であろうとするからだ。

だが、

完全であろうという

あなたとは誰か。

全体しか

完全ではあり得ない。

あなたは決して

完全ではあり得ない。

どうして完全であり得よう。

覚者でさえ、

病気にならなければならない。

覚者も死ななければならない。

人は完全ではあり得ない。

完全という目標そのものが

エゴ・トリップだ。

全体はすでに完全だ。

それについて心配する必要はない。

その全体の中にあって、

あなたもまた完全なのだ。


D10.jpg


Osho - Neither This Nor That



posted by TARA at 16:07| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする