2022年04月16日

OSHOの講話 48 【手放し】

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手放しとは、

もっとも美しい空間のひとつだ。

何をすることもなく、

静かに坐ってただ存在する。

すると草はひとりでに生える。

あなたはただ鳥の歌を、

樹々の緑を、

多次元のサイケデリックな

花の色を楽しむ。

存在を体験するには

何もする必要もない。

することをやめなければならない。

どんな緊張も、

どんな心配もない、

空っぽの状態に

いなければならない。

この静謐な状態の中で、

あなたは私たちを取り巻く

音楽とのある諧調の中に入る。

突然、太陽の美しさに気づく。

一度も日没を

楽しんだことのない人、

一度も日の出を楽しんだことの

ない人が無数にいる。

彼らにはその余裕がない。

彼らは絶えず働き、

生産し続けている。

― 自分のためではなく、

ずる賢い既得権益者たちのためだ。

権力の座にあり、

人類を操る能力を

持った者たちのためだ。

当然彼らは、

仕事は偉大なことだと

あなたたちに教える。

― それは彼らの利益にもなる。

そしてその条件づけが

あまりにも深くなってしまって、

あなたは自分が

なぜくつろぐことが

できないのかの理由すら

分からない。

瞑想のあらゆる技法とは、

あなたたちが手放しのアートを

思い出すのを手伝うための

方法に他ならない。

私が思い出すというのは、

あなたたちが既に

それを知っているからだ。

そして、あなたは今も

それを知っている。

ただその知識は、

社会によって抑圧されている。

単純な原理が

思い出されなければならない。

肉体が最初であるべきだ。

ベッドに横になって ―

そしてベッドには毎日横に

なっているものだから、

何も特別なことはいらない ―

ベッドに横たわったら、

眠りが来る前に、

目を閉じて、

自分の足から来るエネルギーを

見守り始めなさい。

どこかに何かの緊張があるかどうか。

足には、腿には、胃にはどうか?

そこに何かのこわばり、

何かの緊張はないか。

そしてもし緊張を見つけたら、

ただそれをくつろがせようと

するだけでいい。

そしてくつろぎが

来るのを感じない限り、

そのポイントを

動いてはいけない。

手を通って行きなさい。

― 手というのはあなたの

マインドだからだ。

手はあなたのマインドに

つながっている。

もし右手が緊張していたら

あなたの大脳の左側が

緊張することになる。

左手が緊張していたら、

あなたの大脳の右側が

緊張することになる。

だからまず手を通って行きなさい。

― それはほとんどあなたの

マインドの枝のようなものだ ―

そしてその後で、

最後にマインドに戻りなさい。

全身がくつろいだら、

マインドは既に90パーセント

くつろいでいる。

肉体はマインドの拡張に

他ならないからだ。

それからマインドの中にある

10パーセントの緊張だが・・・

ただそれを見守りなさい。

すると見守るだけで、

その雲は消えていく。

数日かかるだろう。

それはひとつのコツだ。

するとそれはあなたが

非常にくつろいでいた

子供の頃の体験をよみがえらせる。

ベッドから始めなさい、毎晩だ。

二、三日のうちに、

そのコツをつかめるだろう。

そして一旦その秘訣を知ったら、

― 誰もあなたにそれを

教えることはできない。

あなた自身の肉体の中で

あなたが探求しなければならない ―

そうしたら日中でも、

どんなときでも、

くつろぐことができる。

そして、

くつろぎのマスターであることは

この世で最も素晴らしい

体験のひとつだ。

これこそが霊性への

大いなる旅の始まりだ。

なぜなら完全に手放しになったら

その人はもはや

肉体ではないからだ。

これまで単純な事実、

何かの緊張、何かのこわばり、

何かの痛みがあるときにしか、

自分の肉体を

意識しないという事実に

気づいたことはないだろうか?

全身がくつろいだら、

それだけあなたは自分が

肉体であることを忘れる。

そしてまさにその肉体を

忘れることに中に、

肉体の中に隠されている

新しい現象の、

自分が霊的存在であることの

想起がある。

手放しとは、

自分が肉体ではない永遠の

不死なるものであることを

知るための方法だ。

この世の他の宗教など

何も必要ない。

単純な手放しのアートだけで

あらゆる人は宗教的人間に変わる。

宗教とは神を信じることではない。

宗教とはローマ法王を

信じることではない。

宗教はなんらかの

イデオロギー体系を

信じることではない。

宗教とは自分の中の永遠なるものを

知ることだ。

サティヤム、シヴァム、スンドラム ―

あなたの実存の

真なるもの、

神性なるもの、

あなたの美、

あなたの優雅さ、

あなたの輝きを知ることだ。

手放しのアートとは

非物質的なるものを、

計測できないものを、

自分の真の存在を、

体験することと同義語だ。

自分でも知らずに

手放している瞬間が

わずかだがある。

たとえば、本当に

笑っているときだ。

― 腹から笑っているとき、

単に頭で

笑っているのではなく、

腹の底から笑っているとき ―

人は知らずに

くつろいでおり、

手放しでいる。


Osho




posted by TARA at 11:19| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月08日

OSHOの講話47【真正】


真正であるとは、

自分自身に

誠実であるということだ。

それは実に危険な現象だ。

まれな人々にしかそれはできない。

だが、

それをやろうとした者は

必ず達成する。

彼らは

想像もできないほどの

美、

優雅さ、

充足を

達成する。

誰もが、欲求不満に

陥っているように見えるのは、

自らの内なる声に

耳を傾ける者が

一人もいないからだ。


第二のこと。

最初のことをやりとげて、

初めて第二のことが

可能になる…

決して仮面をつけてはいけない。

腹が立ったら、

怒りなさい。

それには危険を伴うが、

微笑んではいけない。

なぜならそれは真実では

なくなることだからだ。

だが、

あなた方は怒りがあっても、

微笑みなさいと

教えられてきた。

あなたの微笑みは

偽りのものに、

仮面になってしまう。

うむ?唇の体操以外の

何ものでもない。

ハートは怒りで、

毒で一杯なのに、

唇は微笑んでいる。

あなたは偽りの

現象になってしまう・・・。


真正さについて

第三目のこと。

常に現在に、

とどまりなさい…

なぜなら、

すべての虚偽は

過去か未来かの

いずれかから入り込むからだ。

過ぎたことは過ぎたことだ…

それを気にしてはいけない。

それを重荷にしてはいけない。

そうでないと、

それがじゃまになって、

現在に対して

誠実になることができない。

そして、

まだやって来てないものは

まだやって来ていない…

いたずらに未来のことを

気にしてはいけない。

そうでないと、

それは現在に入り込んで、

それを壊してしまうだろう。

現在に対して誠実でいなさい。

そうすれば真正に

なることができる。

<いまここ>に在ることが

真正であることだ。

過去もなければ、

未来もない。

この瞬間がすべて、

この瞬間が永遠

そのものだ。

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☆彡☆彡☆彡


講話の出典は不明です。



真正と言う言葉を普段使うことはありませんが、

ピュアでいて

自分軸のような内なる芯がそっとある

(激しさを感じさせない)

という人に出会った時

この言葉がぴったりだなぁと感激いたしました。


>それは実に危険な現象だ。

自分の状況の危険を顧みない

ということも、

きっとあったとおもいますが

そののち


起きてくる状況を

逃げることなく受け容れてきた


という

>まれな人々にしかそれはできない。


見え方や認識、感じ方などが

きっと違うのだろうな~と。


ふさわしい表現も見つかりませんが

OSHO禅タロットの

【無垢】

が一番にあってるように感じます。


今日はお釈迦様の誕生日。

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*蓮華さんたちも祝ってる


庭先に出れば

晩春のきりっとクリアな光あふれる中

初くまんばちちゃん

初蛇さんとも遭遇して。


叡智や慈悲も常に注がれているのだろうな~

感じられる身体があることにも

改めてありがたいな~と感じました。



posted by TARA at 11:03| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月15日

OSHOの講話45【祝祭】

タロットカードがそのまま講話になっている♪

そんな講話に時々出会あうので

これからはご紹介していこうかなと思っています。


言葉はあくまでも言葉なので

意味が180度違って認識していたり

気にしているからこそ

葛藤が生じてしまうこともあります

OSHOの講話をダイレクトに観じて

受け取っていただいたカードが

生き生きと響きますように。


今日のシェアしたいのは

【祝祭】

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不安・悲しみ・恐れetcいろいろと

避けたいものは避けたい・・・


貫くこと・頑固なこと

流されること・受け容れること

微妙だけど大きな差、

過去のままを続けてしまっていることに

目を向けたら、気づき、去らせることができる。。。

祝うことはいつでもできる、増やせられる、

そんな本質こそがあなたですよ、と。


ーーー


幸せはひとつの極、

悲しみはもう一方の極だ。

至福はひとつの極、

惨めさはもう一方の極だ。

生は両極を含んでいる。

至福だけの生には、

横への広がりはあるが、

深みがない。

悲しみの生には、

深みがあるが、

広がりがない。

悲しみと至福の両方からなる生は

多くの次元にわたる。

それは同時に

すべての次元のなかを動く。

仏陀の彫像を見てごらん。

あるいは時々、

私の目をのぞき込んでごらん

あなたは両方を同時に

見出すだろう。

至福、平安、悲しみもだ。

あなたは悲しみを含んでいる

至福を見出す。

なぜなら、

その悲しみが至福に

深みを与えるからだ。

仏陀の彫像を見守ってごらん

至福に満ちている、

が、それでいて

悲しみをたたえている。

<悲しい>というまさにその言葉が

あなたに何かが悪いという

間違った連想を促す。

これはあなたの解釈だ。

私にとって、

生はその全体において

よいものだ。

そして、

生をその全体において理解するとき、

そのときにのみ、

あなたは祝うことができる。

さもなければ、だめだ。

祝祭とは、

何が起ころうとかまわない、

私は祝う、

という意味だ。

祝祭は、

「幸せなら祝おう」とか、

「不幸せなら祝わない」というように、

ある決まったものごとに

条件付けられるものではない。

祝祭は無条件だ。

私は生を祝う。

生が不幸せをもたらす

けっこうだ、

私はそれを祝う。

生が幸せをもたらす

けっこうだ、

私はそれを祝う。

祝祭が私の態度であり、

生が何をもたらそうとも

無条件だ。

しかし、問題が生じる。

なぜなら、

いつであれ私が言葉を使うと、

それらの言葉が

あなたのマインドに

連想を引き起こすからだ。

私が「祝いなさい」と言うと、

あなたは、

人は幸せでいなければならないのだ、

と考える。

悲しいのにどうして祝えるのか?と。

私は、人が祝うためには、

幸せでなければならない、

とは言っていない。

祝祭とは、

何であれ生があなたに与えるもの、

何であれ神があなたへ

与えるものへの感謝だ。

祝祭とは謝意だ。

それは感謝だ。

あるスーフィーの神秘家が

とても貧しく、

空腹で見捨てられ、

旅に疲れていた。

夜になって彼は

ある村へ行ったが、

その村は彼を

受け容れようとしなかった。

その村は保守的な人々の村だった。

そして、

保守的な回教徒がいるとなると、

説得するのは非常に難しい。

彼らは町の中の、

雨をしのぐ小屋さえ

与えようとしなかった。

夜は寒く、

彼は空腹で、

疲れ、

着るものも充分になく、

震えていた。

彼は、町はずれの木の下に坐っていた。

彼の弟子たちは悲しみにうちひしがれ、

意気消沈し、怒りさえ覚えていて、

そこに坐っていた。

すると、

彼は祈り始めた。

神に向かって、

彼は言った。

「あなたは素晴らしい!

あなたは常に、何であれ、

私に必要なものを与えてくださる」

これはあんんまりだった。

弟子の一人が言った。

「ちょっと待ってください。

それではあまりにも言いすぎです。

とりわけ今夜は。

その言葉は偽りです。

私たちは空腹で、

疲れ、着るものが

ないないというのに、

冷たい夜のとばりが降りようと

しているのですよ。

そこらじゅうに、

野生の動物がいるのに

私たちは町から

拒絶されているのです。

私たちには小屋さえありません。

あなたは何に対して、神に感謝の念を

捧げているのですか?

<あなたは常に、何であれ、

私に必要なものを与えてくださる>

というのは、どういう意味ですか?」

神秘家は言った。

「そのとおりの意味だ。

私はもう一度、繰り返す。

神は、

何であれ、

必要なものは与えてくださる。

今夜、私には貧しさが必要なのだ。

今夜、私には拒絶されることが必要なのだ。

今夜、私には空腹になることが、

危険にさらされることが必要なのだ。

さもなければ、

なぜ神が私に

それを与えなければならない?

それは欠かすことができない

ものに違いない。

それは必要とされている。

そして、

私は感謝しなければならない。

神は本当に素晴らしく、

私に必要なものの

面倒を見てくださる。

神は実に素晴らしい!」

これが、状況にかかわらない態度だ。

状況は関係ない。

祝いなさい,

どんな場合であろうとも。

もし悲しかったら、

あなたは悲しいのだから、

祝いなさい。

試してごらん。

ちょっと試して、あなたは驚くだろう

それは起こる。

あなたは悲しいのかね?

踊りだしなさい。

なぜなら、

悲しみはとても美しいからだ。

存在の、

何とも、

静寂の花だからだ。

踊り、

楽しみなさい。

すると突然、

あなたは悲しみが

消えていくのを感じるだろう。

ある距離が生まれている。

やがて、

あなたは悲しみを忘れ、

祝っていることだろう。

あなたは、

そのエネルギーを

変容させたのだ。

これが錬金術の何たるかだ。

卑金属をより質の高い

金属に変えることだ。

悲しみ、

怒り、

嫉妬…

こうした卑金属は金に

変容されうる。

Osho「生・愛・笑い」より「悲しみを祝う」

posted by TARA at 23:59| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする