2022年09月16日

OSHOの講話 52


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明晰さとは何だろう?

明晰さとは

雑念がない心の状態をいう。

雑念は

空に浮かぶ雲のようだ。

空が雲でいっぱいになっていたら、

太陽を見ることはできない。

あなたの空に、

あなたの内なる大空に、

あなたの意識に

雲がかかっていないとき、

明晰さが生まれる。

いいかね、

明晰さとは

頭が切れることではない。

頭が切れる者たちは、

明晰な人々ではない。

頭の回転を

早くさせることは簡単だ。

頭が切れるというのは、

抜け目なく立ちまわる

ということに他ならず、

ずる賢さを

ましな言葉で

言い換えただけのことだ。

頭が切れる者たちは

ずる賢い人々ではあっても、

明晰な人々ではない。

いいかね、

理知的であることは

聡明であるということではない。

理知的であることはやさしい。

情報を集めればいいし、

知識を習得すればいい、

そうすれば、

すばらしい知識人、

学者、パンディットになることができる....

だが、

そんなものは明晰さではないし、

そんなものは聡明さではない。

聡明さというのは

それとはまったく逆のものだ。

頭のなかを

知識がうごめいていないとき、

内なる空に

一片の雲もよぎっていないとき、

何の計算もなく、

何の狡猾さもなく、

何のずる賢さもないとき、

まったく何も考えず、

ただあるものを

すべて映しだす

鏡のようになっているとき....

それが明晰さだ。

明晰さとは

鏡のような質をいう。

そして明晰になることが

神に直面することだ。

神を知識で知ることはできない、

神は明晰さによって知られる。

神は利口な頭や、

小賢しい知恵によって

知られるのではなく、

天真爛漫なこころによって知られる。

天真爛漫であることが明晰さだ。

イエスが

「幼子のようにならないかぎり、

 私の王国に入ることはできない」

と言うのはそのためだ。

彼は何を

言おうとしているのだろう?

彼はただ

こう言おうとしている....

その内なる空が

まだ雲に覆われていない、

その鏡がまだ

ほこりで汚れていない、

その知覚が

一点の曇りもなく澄みきっている

幼い子どものように

清らかにならないかぎり……。

彼はものをあるがままに

見ることができる。

彼はそれをゆがめないし、

ゆがめることで

利を得ようとはしない。

彼は投影せずに、

どんな状況も

すべてありのままに見る。

彼は受動的な鏡になっている....

それが明晰さだ。

まだはっきりつかめないなら、

仏教徒の三つの観想....

空観(くうがん)、

仮観(けかん)、

中観(ちゅうがん)...

を使って説き明かしてみよう。

この仏教徒の三つの観想は、

最も優れた

瞑想の方便のひとつだ。

いいかね、

それは方便であって、

哲学ではない。

それを哲学ととらえてしまうと、

要点を丸ごと見逃すことになる。

それは起こった。

何世紀にもわたって、

仏教哲学に関する

様々な大論文が書かれてきたが、

それは愚にもつかないたわごとだ。

なぜなら、

仏陀は哲学者ではないからだ。

彼はいかなる哲学も

教えなかった。

実際、

彼は反哲学的な姿勢を強く取った。

仏陀が町を訪れるときは、

必ず弟子たちが

先に町に行って、

「哲学的な質問を

 仏陀にしないでください」

と触れてまわるのが

慣例になっていた。

仏陀は

十一の質問のリストを用意していた。

その十一の質問のなかに

すべての哲学が含まれていた....

神について、

天地創造について、

輪廻転生について、

死後の生について等々。

この十一の質問のなかには、

ありうるすべての

哲学が含まれていた。

その十一の質問のリストを見れば、

どんな質問もできなくなる。

そのリストが町中に伝えられた。

「仏陀は哲学者ではありません。

 形而上学者ではありません。

 思想家ではありません!

 だから、こういった質問は

 仏陀にしないでください。

 彼は哲学者ではなく、

 医者としてここに来たのです。

 目が見えなければ、

 薬を調合しますし、

 耳が聞こえなければ、

 手術をします」

仏陀は

「私は医者だ」

と何度もくり返し言っていたが、

彼の名のもとに

壮大な哲学が生まれ、

彼が方便として用いた言葉が

哲学的な教義になってしまった。

例えば、

空(くう)....

「すべては空である」....

これが根本的な原理であると主張する

仏教の教派がいくつかある。

それは方便にすぎない。

それは客観的事物については

何も言っておらず、

人間のマインドについて

あることを言っているだけだ。

それはあなたが明晰になるのを助ける、

ただそれだけのことだ。

仏陀の関心は客観的な事物ではなく、

あなたの明晰さにある。

彼は

「明晰であれば、

 存在の実相がわかる」

と言う。

だとしたら、

客観的な事物について

語ってみてもしかたがない。

まったく何の益にもならない。

それは光や色や虹や花のことを

盲人に語ってみるようなものだ。

それはまったく馬鹿げている。

盲人に昇る太陽のことは

伝えられない。

盲人に銀色に輝く月の光のことは


伝えられない。

盲人に樹々の緑のことは

伝えられない。

盲人にとって

「緑」は何の意味もなさないからだ。

言葉は聞こえてくる....

あなたが「神」という言葉を

耳にするのと同じように、

盲人は「緑」という言葉を耳にする。

あなたは理解しないし、

盲人も理解しない。

その言葉を

何度も何度も何度も

聞いているからといって、

自分は神が何であるかを

理解しているなどといった

馬鹿な考えを抱いてはいけない。

神を理解するためには

神を目で見なければならない。

それ以外に方法はない。

緑を理解するためには

目で緑を見なければならない。

それ以外に方法はない。

Osho - The Secret Of The Secrets


posted by TARA at 22:41| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月25日

OSHOの講話 51


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朝、全ての人に一つの選択肢がある

朝だけでなく、あらゆる瞬間に

苦悩するか幸せでいるかの選択肢がある

あなたはいつも苦しむ方を選ぶ

なぜならそれは投資だからだ

あなたはいつも苦しむ方を選ぶ

なぜならそれが習慣だからであり、

パターンだからだ

あなたは常にそうしてきた

そうすることに長けている

それは轍となってしまった

選ばなければならない瞬間、

マインドはすぐさま苦悩へと流れる

苦悩は下り坂で

歓喜は上り坂かのように見える

歓喜は非常に到達し難いもののように見える

だがそんなことはない

真実は全く逆…

歓喜は下り坂で、苦悩は上り坂だ

苦悩は非常に達成し難いものだが、

あなたは達成してしまう

あなたは不可能なことを成し遂げる

なぜなら苦悩は

自然に反しているからだ

誰もが苦しみたくないのに

誰もが苦しんでいる

社会は大層な仕事をやってきた

教育、文化、文化財団体、両親、

教師、彼らは大層な仕事をやってきた

彼らは歓喜に溢れた創造者から

苦悩に満ちた生き物を作ってきた

子供は皆、歓喜に溢れて生まれる

どの子供も一人の神として生まれる

そして誰もが狂人として死ぬ

これがあなた方のワークの全容だ

いかに子ども時代を再び手にするか

いかにそれを取り戻すか

再び子供になれるなら、

その時、苦悩はない

子供には苦悩の瞬間がない

という意味ではない

苦悩はある…

でもそれでも苦悩はない

この点を務めて理解しなさい

子供は苦しむこともあるし、

悲しむこともある

ある瞬間、深く悲しむが

その悲しみにとてもトータルで、

その悲しみと一つだから

分裂がない

悲しみから分離している子供はいない

子供は悲しみを自分とは別個なもの、

分離された者としては見ない

子供は悲しんでいる…

その中に深く巻き込まれている

そして悲しみと一つになる時、

悲しみは悲しみではない

悲しみと一つになるなら、

それは独自の美しささえ

備えている

だからこれが鍵だ


エゴとして分離していることは

あらゆる苦悩の土台だ

生がもたらす全てのものと

一つになり、

それとともに流れる

その中に強烈にトータルに

没頭するあまり、

もはや自分がなくなり、

失われてしまったら、

全ては至福に満ちている

選択肢はそこにあるが、

あなたは選択肢に

気づきもしなかった

ずっと間違ったものを選択し続け、

それが習慣として

染み付いてしまったため、

あなたはただ自動的に

それを選んでしまう

選択の余地はない

注意することだ

自分が苦しむ方を

選んでいる度に思い出しなさい

これが自分の選択だ、と

こうした心がけさえも助けになる

これが自分の選択だ、

責任は自分にある、

そしてこれは自分が常に

自分に対して行なっていることだ、

これ自分の行為だという留意…

すぐにあなたは

違いを感じるだろう

マインドの質が

変わってしまうだろう

幸せへと向かう方が

簡単になるだろう

ひとたび、

これは自分の選択だと理解したら、

すべてはゲームになる

苦しむのが好きなら苦しむといい

ただし、

それが自分の選択であることを

覚えておきなさい

そして不平を言ってはならない

他人のせいではない

これはあなたのドラマだ

こんな感じを好むなら、

苦しい道を好むなら、

苦悩の中で人生を送ることを

望むなら、

それはあなたの選択であり、

あなたのゲームだ

あなたはそれを演じている

うまく演じるといい!

苦しまない方法を

人に尋ねに言ってはいけない

それは馬鹿げている

幸せになる方法をマスターや

グルに尋ねに行ってはいけない

「エセ」 グルが存在するのは

あなたが愚かだからだ

あなたは苦悩を生み出し、

それを生み出さない方法を

人に尋ねに行く

そして苦悩を生み出し続ける

それは自分の行いに

注意を払っていないからだ

まさにこの瞬間から

試みなさい

幸せになること

至福に満ちることを試みなさい



posted by TARA at 09:27| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月31日

OSHOの講話 50


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●74

Love

休息が至高への目的地(ゴール)であり

仕事はそこへ至る手段にすぎない

努力からの完全なる自由をともなう

全面的リラクゼーションこそ

至高の目的地なのだ

そうしたとき、生はひとつの戯れとなる

そしてそうなれば、努力すらも戯れとなる

あらゆる文明はそのような戯れから生まれた


詩、哲学、宗教は静養の果実だ

これはいままで、誰もが享受できるものではなかった

が、テクノロジーと科学が近い将来それを可能にするだろう

わたしがテクノロジーに賛成なのはそのためだ


労働に本質的な価値を見出す人々は

機械の利用に反対する

そうならざるをえない

わたしにとっては、労働にそうした本質的価値はない

反対に、わたしはそれを重荷と見る

事が休息のための前提条件であるかぎり

それは至福に満ちたものではありえない

仕事は休息状態から自然に流れ出すとき

それははじめて至福に満ちたものとなる

だから、わたしには休息を罪悪などとは呼べない


同様に、わたしは犠牲的精神というものも支持しない

わたしは誰かがほかの誰かのために生きるということなど望まないし

ある世代が他の世代のために自己を犠牲にすることなど望まない

そのような犠牲は結局、非常に高くつく

そうした犠牲をはらう人間は、非人間的な見返りを期待するものだ

父親たちが息子に不可能なことを要求するのはそのためだ

もしどの父親もその息子のためにいきたとしたら

誰が自分自身のためにいきられよう?

どの息子もいずれ父親になる可能性があるのだ

いいや、わたしはあらゆる人に自分自身のために生きてほしい

自分自身の幸福のため

自分自身の休息のために--


ひとりの父親が幸せであるとき

彼は息子のために多くをなすだろう

それも楽に--

なぜならば、それは彼の幸福から出てくるものだから

そうしたとき、そこには犠牲も放棄もありはしない

彼のなすことは

父親であるということのなかから自然に出てくるものだ

それも、幸せな父親であるということのなかから--

そうすれば、自分の息子に対する非人間的な期待などもちようがない

そして、期待からくる圧力がないとき

期待は応えられるものだ

息子が息子であることのなかから--


ひとことで言うならば

わたしはひとりひとりの人間に利己的であることを教える

利他的な教えの数々は

人間に自殺以外の何ものも教えてこなかった

そして、自殺的な人間というものは必ず他殺的でもある

不幸せな人間は

自分の悲嘆を他の人たちのなかにまき散らすのだ


わたしはもうひとつ、現在を未来のために犠牲にすることにも反対だ

在るそのものはつねに現在にあるのだから

もしそのなかをトータルに生きたならば

未来はそこから生まれ出てくる

そしてそれが来るとき、それもやはり現在なのだ

現在を未来のために犠牲にする習慣のある者に

未来はけっしてやって来ない

なぜならば、やってきたものはまたしても

まだやってこないもののために犠牲にされてしまうからだ


最後に、あなたは

わたしもまた他人のため、未来のために働くのはなぜかと問う

まず第一に、わたしははたらいたりしない

わたしのやることは

それが何であれ休息状態のなかから流れ出してくるものだ

私は泳がない

ただ浮かび漂うだけだ

誰ひとり、他の人ために何かするなどとうことはできない

しかし、わたしがわたしであることによって

他の人たちに何かが起こるとしたら

それはまた別だ

ただし、そこでもやはりやり手はわたしではない

.

未来に関して言うと

わたしにとっては現在がすべてだ

そして過去もまた現在に含まれる

そして過ぎ去った現在だ

そして未来も--

未来というのはまだ来ていない現在を言う

生はつねにいまここにある

だから、わたしは過去や未来に拘泥しない

そして、驚いたことに

わたしが過去や未来を気にかけなくなって以来

過去や未来の方がわたしを気にかけるようになったのだ!


みなさんによろしく



ア・カップ・オブ・ティ

posted by TARA at 15:45| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする