2022年08月25日

OSHOの講話 51


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朝、全ての人に一つの選択肢がある

朝だけでなく、あらゆる瞬間に

苦悩するか幸せでいるかの選択肢がある

あなたはいつも苦しむ方を選ぶ

なぜならそれは投資だからだ

あなたはいつも苦しむ方を選ぶ

なぜならそれが習慣だからであり、

パターンだからだ

あなたは常にそうしてきた

そうすることに長けている

それは轍となってしまった

選ばなければならない瞬間、

マインドはすぐさま苦悩へと流れる

苦悩は下り坂で

歓喜は上り坂かのように見える

歓喜は非常に到達し難いもののように見える

だがそんなことはない

真実は全く逆…

歓喜は下り坂で、苦悩は上り坂だ

苦悩は非常に達成し難いものだが、

あなたは達成してしまう

あなたは不可能なことを成し遂げる

なぜなら苦悩は

自然に反しているからだ

誰もが苦しみたくないのに

誰もが苦しんでいる

社会は大層な仕事をやってきた

教育、文化、文化財団体、両親、

教師、彼らは大層な仕事をやってきた

彼らは歓喜に溢れた創造者から

苦悩に満ちた生き物を作ってきた

子供は皆、歓喜に溢れて生まれる

どの子供も一人の神として生まれる

そして誰もが狂人として死ぬ

これがあなた方のワークの全容だ

いかに子ども時代を再び手にするか

いかにそれを取り戻すか

再び子供になれるなら、

その時、苦悩はない

子供には苦悩の瞬間がない

という意味ではない

苦悩はある…

でもそれでも苦悩はない

この点を務めて理解しなさい

子供は苦しむこともあるし、

悲しむこともある

ある瞬間、深く悲しむが

その悲しみにとてもトータルで、

その悲しみと一つだから

分裂がない

悲しみから分離している子供はいない

子供は悲しみを自分とは別個なもの、

分離された者としては見ない

子供は悲しんでいる…

その中に深く巻き込まれている

そして悲しみと一つになる時、

悲しみは悲しみではない

悲しみと一つになるなら、

それは独自の美しささえ

備えている

だからこれが鍵だ


エゴとして分離していることは

あらゆる苦悩の土台だ

生がもたらす全てのものと

一つになり、

それとともに流れる

その中に強烈にトータルに

没頭するあまり、

もはや自分がなくなり、

失われてしまったら、

全ては至福に満ちている

選択肢はそこにあるが、

あなたは選択肢に

気づきもしなかった

ずっと間違ったものを選択し続け、

それが習慣として

染み付いてしまったため、

あなたはただ自動的に

それを選んでしまう

選択の余地はない

注意することだ

自分が苦しむ方を

選んでいる度に思い出しなさい

これが自分の選択だ、と

こうした心がけさえも助けになる

これが自分の選択だ、

責任は自分にある、

そしてこれは自分が常に

自分に対して行なっていることだ、

これ自分の行為だという留意…

すぐにあなたは

違いを感じるだろう

マインドの質が

変わってしまうだろう

幸せへと向かう方が

簡単になるだろう

ひとたび、

これは自分の選択だと理解したら、

すべてはゲームになる

苦しむのが好きなら苦しむといい

ただし、

それが自分の選択であることを

覚えておきなさい

そして不平を言ってはならない

他人のせいではない

これはあなたのドラマだ

こんな感じを好むなら、

苦しい道を好むなら、

苦悩の中で人生を送ることを

望むなら、

それはあなたの選択であり、

あなたのゲームだ

あなたはそれを演じている

うまく演じるといい!

苦しまない方法を

人に尋ねに言ってはいけない

それは馬鹿げている

幸せになる方法をマスターや

グルに尋ねに行ってはいけない

「エセ」 グルが存在するのは

あなたが愚かだからだ

あなたは苦悩を生み出し、

それを生み出さない方法を

人に尋ねに行く

そして苦悩を生み出し続ける

それは自分の行いに

注意を払っていないからだ

まさにこの瞬間から

試みなさい

幸せになること

至福に満ちることを試みなさい



posted by TARA at 09:27| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月31日

OSHOの講話 50


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●74

Love

休息が至高への目的地(ゴール)であり

仕事はそこへ至る手段にすぎない

努力からの完全なる自由をともなう

全面的リラクゼーションこそ

至高の目的地なのだ

そうしたとき、生はひとつの戯れとなる

そしてそうなれば、努力すらも戯れとなる

あらゆる文明はそのような戯れから生まれた


詩、哲学、宗教は静養の果実だ

これはいままで、誰もが享受できるものではなかった

が、テクノロジーと科学が近い将来それを可能にするだろう

わたしがテクノロジーに賛成なのはそのためだ


労働に本質的な価値を見出す人々は

機械の利用に反対する

そうならざるをえない

わたしにとっては、労働にそうした本質的価値はない

反対に、わたしはそれを重荷と見る

事が休息のための前提条件であるかぎり

それは至福に満ちたものではありえない

仕事は休息状態から自然に流れ出すとき

それははじめて至福に満ちたものとなる

だから、わたしには休息を罪悪などとは呼べない


同様に、わたしは犠牲的精神というものも支持しない

わたしは誰かがほかの誰かのために生きるということなど望まないし

ある世代が他の世代のために自己を犠牲にすることなど望まない

そのような犠牲は結局、非常に高くつく

そうした犠牲をはらう人間は、非人間的な見返りを期待するものだ

父親たちが息子に不可能なことを要求するのはそのためだ

もしどの父親もその息子のためにいきたとしたら

誰が自分自身のためにいきられよう?

どの息子もいずれ父親になる可能性があるのだ

いいや、わたしはあらゆる人に自分自身のために生きてほしい

自分自身の幸福のため

自分自身の休息のために--


ひとりの父親が幸せであるとき

彼は息子のために多くをなすだろう

それも楽に--

なぜならば、それは彼の幸福から出てくるものだから

そうしたとき、そこには犠牲も放棄もありはしない

彼のなすことは

父親であるということのなかから自然に出てくるものだ

それも、幸せな父親であるということのなかから--

そうすれば、自分の息子に対する非人間的な期待などもちようがない

そして、期待からくる圧力がないとき

期待は応えられるものだ

息子が息子であることのなかから--


ひとことで言うならば

わたしはひとりひとりの人間に利己的であることを教える

利他的な教えの数々は

人間に自殺以外の何ものも教えてこなかった

そして、自殺的な人間というものは必ず他殺的でもある

不幸せな人間は

自分の悲嘆を他の人たちのなかにまき散らすのだ


わたしはもうひとつ、現在を未来のために犠牲にすることにも反対だ

在るそのものはつねに現在にあるのだから

もしそのなかをトータルに生きたならば

未来はそこから生まれ出てくる

そしてそれが来るとき、それもやはり現在なのだ

現在を未来のために犠牲にする習慣のある者に

未来はけっしてやって来ない

なぜならば、やってきたものはまたしても

まだやってこないもののために犠牲にされてしまうからだ


最後に、あなたは

わたしもまた他人のため、未来のために働くのはなぜかと問う

まず第一に、わたしははたらいたりしない

わたしのやることは

それが何であれ休息状態のなかから流れ出してくるものだ

私は泳がない

ただ浮かび漂うだけだ

誰ひとり、他の人ために何かするなどとうことはできない

しかし、わたしがわたしであることによって

他の人たちに何かが起こるとしたら

それはまた別だ

ただし、そこでもやはりやり手はわたしではない

.

未来に関して言うと

わたしにとっては現在がすべてだ

そして過去もまた現在に含まれる

そして過ぎ去った現在だ

そして未来も--

未来というのはまだ来ていない現在を言う

生はつねにいまここにある

だから、わたしは過去や未来に拘泥しない

そして、驚いたことに

わたしが過去や未来を気にかけなくなって以来

過去や未来の方がわたしを気にかけるようになったのだ!


みなさんによろしく



ア・カップ・オブ・ティ

posted by TARA at 15:45| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年06月15日

OSHOの講話 49



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愛とは希な開花だ。

愛は

ほんの時折にしか

起こらない。

何億もの人々が、

自分達は

恋人達だという

偽りの姿勢の中で生きている。

彼らは

自分達は愛し合っていると

信じている・・・

だが、それは

彼らの思い込みにすぎない。

愛とは希な開花・・

時折、それは起こる。

それが希なのは、

恐怖が無くなったときに

しか起こらないからだ。

それ以前には

決して起こらない。

愛は極めて深い内面的な

宗教的な人にしか

起こり得ない。

セックスは

誰にも可能なこと。

交友関係を持つことは

誰にも可能なこと。

だが、愛は違う。

あなたが

怖れていないとき、

そのときには

何ひとつ隠すものは無い。

そのときあなたは

自らを開くことができる。

そのときあなたは

あらゆる境界線を取り除き

あなたの内部に、

あなたの核にまで

浸透するよう

他者を招くことができる。

いいかね

もしあなたが、

自分の内部深くに浸透することを

誰かに許したら

相手もまたあなたが

彼の中に、

彼女の中に

入ってゆくことを許すだろう。

なぜなら、

あなたが他者を

自分の中に入ることを

許すときには

信頼が生まれるからだ。

あなたが怖れていないときには、

相手からもまた

恐怖は消えてゆく。

怖れることはない。

怖れを落として、

オープンでいてごらん。

他者の中心が

あなたの中心に出会うのを

許すがいい。

あなたはそれによって

再び生まれ変わる。

存在の新しい質が

創り出されるのだ。

存在のこの質は言う。

「神」は在ると。

「神」は論議では無く、

或る充足

充足を感じ取る

フィーリングのことだ。

あなた方も

観察したことがあるだろう。

不満を感じているときには

決まって

神を否定したくなる。

満足していないときには

あなたの存在全体が、

神などいない、

と言いたがる。

無神論というのは

論理から出てくるものではない。

それは不満から出てくるものだ。

あなたはそれに

理屈をつけるかもしれない。

それはまた別問題だ。

あなたは、

自分が不満だから

無神論者なのだとは言わないだろう。

あなたは、

神など存在しない、

私にはその証拠があるんだ、

というかもしれない。

しかし、

それは本当のことではない。

もしあなたが満足していたら、

突如としてあなたの存在が言い始める。

「神」はある!と・・・

不意にそう感じるのだ。

実在全体が神性になる・・

もし愛がそこにあったら、

あなたは生まれて初めて

実在は神性であり

あらゆるものは

その恵みであるという

実感をもつことだろう。

しかし、

これが起こるためには

多くのことが為される必要がある。

これが起こりうるためには、

多くが壊されなければならない。

あなたは、

自分の内部で

障害を生み出すようなもの全てを

壊していかなければならない。

愛をサダナ(修行)にしなさい。

とるに足らない

つまらぬものに

終わらせてはならない。

頭の中の考え事で

終わらせてはならない。

肉体的な満足感で

終わらせてはならない。

愛を内なる探求にしなさい。

そして、

相手を助けとし

友人としなさい。

もう少し説明しようかね。

もしあなたが人を愛したら、

少しずつ、

その人の外面の部分が消えてゆく。

その人のかたちが

消えてゆく・・

あなたは、

形のない内側のものに

もっともっと接するようになる。

形は次第に

ぼんやりとなり、

消えてゆく。

そして、

あなたがもっと深く

見入ったら

そのときには

この形のない個さえも

消え始め、溶け始める・・

と、

彼方なる世界が開かれる

そうなったら

相手のその個人は

単なる開口部、

扉だったことを知る。

愛する人を通じて、

あなたは神性を見出すのだ。


Osho - My Way : The Way Of The White Clouds

posted by TARA at 08:51| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする