2022年10月19日

OSHOの講話 54(53の続きです)


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瞑想の中へ入ってゆくことは、

どこでもないところへ入ってゆくことだ。

それが何の役に立つのだろう?

あなたの手の中に、

触知しうるものは何もない。

自分が成就したことを、

世間に示しうるものは何もない。

世間は、

あなたが何を成就したのかを、

決して知ることがない。

それは、

内なる体験にとどまる・・・

表現しえず、

言語を絶している。

「あなた」だけが知る、

あるいは、

その体験に行き着いた者たちだけが。

彼らはごく少数で、

きわめてまれだ。

世間全体があなたを笑うだろう。

彼らは、

あなたが罠に落ち、

催眠術にかけられ、

自分の生を無駄にしていると思う。

そして、

このように言う人々が

多数派を占めている・・・

彼らはつねに多数派を占めている。

彼らはキリストを笑った、

彼らは老子を笑った、

彼らは仏陀をあざ笑った。

彼らはマハヴィーラに反対した。

彼らは私に反対している。そして彼らは、

あなたにありとあらゆる復讐をする。

彼らは、

あなたが穏やかに生きることを許さない。

これは実に奇妙だ。

仏陀は、

けっして誰をもかき乱そうとしてはいなかった。

彼は、

弟子と共に穏やかに生きることができたはずだ。

が、人々はそれを許そうとしなかった。

イエスは何をしていただろう?

彼は、弟子と共に山に入り、

瞑想し、祈り、神と神の王国について

語ることができたはずだ。

彼が人々に

どんな害を与えていたと言うのだろう?

だが、

彼らは腹を立てていた、

彼らは激怒していた、

彼らはイエスに怒り狂っていた。

彼らはイエスを殺した。

なぜそのようなことが

何度も何度も起こるのだろう?

もしあなたが私と共に在れば、

世界全体が

あなたに反対することになる。

私と共に在ることは危険だ。

それはやさしい選択ではない・・・

あなたは、

世界を向こうにまわして

私を選んでいる。

世界は大きい。

多数派には、

あらゆる種類の権力がある。

そして、

彼らはあなたに反対し、

あなたを破壊したい・・・

あなたは彼らに何もしていないのに。

なぜ彼らはそんなにあわてふためくのだろう?

起こる微妙な現象がある。

誰かが神に向かって動きはじめる瞬間、

ありふれた俗世間に生きている人はみな恐れをなす。

なぜなら、

探求者の現存が、

突然彼らに、自分たちが生を無駄にしてい

ることを感じさせるからだ。

祈り、瞑想する者たちの顔に

突然浮かぶ喜び。

人々の生、

彼らの実存のなかに

突然、ダンス、変化、変容が・・・

その笑い、その愛・・・。

すると、

金や権力を追い求めている者たちは、

自分自身の努力に疑いを持つようになる。

自分たちは何をやっているのだろう?

これでいいのだろうか?と。

大きな疑いが彼らのなかに湧きあがる・・・。

彼らがひどく腹を立てるのはそのためだ。

あなたは彼らの生に疑いをひき起こす。

ところが彼らは、

自分たちの生が正しい生だと確信して生きていた、

その確信は絶対に揺るがなかった。

そこへ仏陀、

あるいはキリストのような人が現われ、

彼の臨在が彼らを揺り起こす。

彼らは二度と強い確信が持てない。

疑いが彼らの実存に入った。

彼らは、

その疑いゆえに怒っている。

さあ、

私のサニヤシンたちは誰にも何もしていない。

あなたは、

彼ら以上に穏やかで、

愛にあふれている人々を見出すことはできない。

彼らは誰にも何の害も及ぼしていない。

だが、

社会はますますあなたがたに

反対することになる。

そして、社会はあらゆる手段を使って

あなたがたを妨害しようとするだろう。

これは奇妙だ、

実に奇妙だ。が、

そこには微妙な論理がある・・・。

つい2,3日前、

マニーシャが質問した。

「Osho 、

 クチに移転するという計画は

 方便にすぎなかったのでしょうか?」

そうではなかった、

マニーシャ。

私はクチに移転したかった、

すべてが計画されていた。

だが、国の政策によって、

移転することはほとんど不可能になった。

私たちが移転できなかったのは、

モラルジ・デサイの悪意のせいだ。

だが、

私がどこへ行くか、

私の人々がどこへ行くか、

私が何をしているかに、

いったいなぜこの国の首相が

関与しなければならないのか?

私たちはいかなる政策も講じていない・・・

私の人々は

世界でもっとも非政治的な人々だ。

私たちは、

政治はまったく愚劣だと考えている。

だが、

まさにそれが原因だ。

疑いが起こる。

疑惑が起こる。

もし私が正しければ、

そのときには、

彼ら全員が間違っている。

そして、

もしこの考えが広がったら・・・。

それは火のように広がりうる。

真理には潜在能力がある・・・

たとえあなたが

それを磔(はりつけ)にしても、

それは広がる。

イエスは磔によって

破壊されはしなかった。

実のところ、

それは役に立った。

イエスは磔ゆえに、

世界における偉大な力になった。

真理を殺すことはできない。

だが、

遅らせることはできる。

人々はあなたがたに反対するだろう。

だから、

私と共に在るには勇気がいる。

そして、

私はあなたがたに

何ひとつ与えることができない・・・

「無」の他には何も。

一休はまさにそのことを言う。

「私はあなたにすべてを与えたい。

 だが、

 私たちブッダは『無』の他には

 何も持っていない」 

私は、

あなたがたに「無」しか

与えることができない・・・

それが私の贈り物だ。

そして、

あなたは自分のすべてを

賭けることになる。

あなたの生命、

あなたの社会的地位、

あなたの家族、

あなたの財力・・・

あなたはすべてを賭けることになる。

「無」のためにすべてを賭けるとは?

あなたは狂っているにちがいない。


Osho - Take It Easy





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OSHOの講話 53 (54へ続く)


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アループ、

それには勇気、

あるいは狂気が必要だ。

そして、

あなたは狂っている。

私と共にいることが出来るのは、

狂った人々か、

それとも勇気ある人々のいずれかだ。

論理的に、

抜け目なく、

打算的に考える者たち、

彼らは、

私と共にいることが出来ない。

勇気もまた、

狂気の一面だ。

狂気は、

勇気の上をゆく。

が、

勇気もまた、

その一面だ。

勇気とは一体、

何なのか?

それは、

あなたのマインドが言い、

あなたの論理が言い、

あなたの正気が言っている、

全てのことをものともせずに、

それでも進むという意味だ。

あなたは危険を知っている、

あなたは危ういことを知っている。

それでも、

あなたは進む。

自分が知っている、

あらゆることにもかかわらず、

それでもあなたは、

ある体験の中に入ってゆくことを選ぶ・・・

それが勇気だ。

勇敢な人々もまた、

狂っている。

とはいえ狂気には、

勇気以上のものがある。

狂気は、

もっと活気にあふれている。

狂気には、

もっと多くの次元がある。

未知なるものに入るために、

計算ばかりしている人間が、

いかに私と共にいられよう?

彼はいつでも計算する。

ここには、

絶えず計算している人々がいる・・・

彼らの歩みは、

きわめて打算的だ。

が、

彼らは、

取り逃がし続けることになる。

彼らの歩みは、

充分躍動的ではありえない、

彼らの歩みは、

量子的跳躍ではありえない。

彼らは、

もくろむがゆえに、

自分たちの知識の境界内にとどまる・・・

彼らは、

既知なるものの内にとどまる。

未知なるものについて、

いかに計算できるだろう?

自分がまだ知らないものについて、

いかに考えることが出来るだろう?

あなたは、

自分の知識をすべて風に乗せ、

投げ捨てなければならない、

そうして初めて、

あなたはその中へと入ることが出来る。

だから、

ときとして、

愚者が行き着き、

いわゆる賢者が、

遅れをとることがある。

愛の中、

祈りの中、

瞑想の中、

神の中では、

一種の気違いじみた勇気が、

絶対に必要だ。

ひとたびあなたが、

その世界に入ってしまえば、

その時には、

勇気は不要だ。

それは、

最初に口火を切る地点だ。

ひとたびあなたが、

聖なるものの世界に入ってしまえば、

ひとたびあなたが、

その何かを味わってしまえば、

その時には、

アループは正しい・・・

それを捨てるのは、

気違いじみている、

それを捨てるには、

途方もない勇気がいる。

実際、

それを捨てるには、

たいへんな愚かさがいる。

そして、

世間に戻ることは不可能だ・・・

それは起こらない、

それは起こりえない。

聞いた話だが・・・

ある男が、

車がパンクしたことに気づいた。

そこで、彼は車を止めて、

タイヤの交換を始めた。

車は、

精神病院の前に止めてあった。

彼がタイヤを換えているところを、

ひとりの入院患者が堀越しに、

しげしげと見つめていた。

ドライバーはうっかりタイヤのねじを、

下水溝の鉄ぶたの中に落としてしまった。

どうすればいい?

しばらくすると、

入院患者が彼を呼んで、

残りの3つのタイヤのねじを

ひとつずつ使って、

4番目のタイヤを止めればいいと言った。

「すごく頭の切れる発想だ」

とドライバーは言った。

「またどうしてそんな君が、

 こんな壁の中に閉じ込められているんだい?」

「それも単純明快さ」

と入院患者は言った。

「俺がここにいるのは、

 馬鹿だからじゃない、

 狂っているからさ」

アループ、

あなたがここにいるのは、

狂っているからだ。

それに今となっては、

去ってゆくことは不可能だ。

その地点は、

すでに過ぎてしまった。

ある地点がある・・・

その地点の手前では、

人は、

逃げたければ逃げることが出来る。

ひとたび、

その地点を過ぎてしまうと、

あなたは戻れない。

そうなったら、

たとえ私から去っていっても、

あなたは、

私から離れることが出来ない。

そうなったら、

どこにいようと、

あなたは自分の内側に私を見出す。

そして、

どこで生きていようと、

あなたは私の風土の中に生きている。

交感(コミュニオン)、

魂の出会いの地点がやって来る。

ひとたびそれが起これば、

後戻りの出来ない地点が

やって来たことになる。

神について考えること、

神を探し求めること、

神に帰依し、

自らの生涯を捧げることですら、

勇気があり、

気違いじみている。


(54へ続く・・・)


Osho - Take It Easy


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2022年09月16日

OSHOの講話 52


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明晰さとは何だろう?

明晰さとは

雑念がない心の状態をいう。

雑念は

空に浮かぶ雲のようだ。

空が雲でいっぱいになっていたら、

太陽を見ることはできない。

あなたの空に、

あなたの内なる大空に、

あなたの意識に

雲がかかっていないとき、

明晰さが生まれる。

いいかね、

明晰さとは

頭が切れることではない。

頭が切れる者たちは、

明晰な人々ではない。

頭の回転を

早くさせることは簡単だ。

頭が切れるというのは、

抜け目なく立ちまわる

ということに他ならず、

ずる賢さを

ましな言葉で

言い換えただけのことだ。

頭が切れる者たちは

ずる賢い人々ではあっても、

明晰な人々ではない。

いいかね、

理知的であることは

聡明であるということではない。

理知的であることはやさしい。

情報を集めればいいし、

知識を習得すればいい、

そうすれば、

すばらしい知識人、

学者、パンディットになることができる....

だが、

そんなものは明晰さではないし、

そんなものは聡明さではない。

聡明さというのは

それとはまったく逆のものだ。

頭のなかを

知識がうごめいていないとき、

内なる空に

一片の雲もよぎっていないとき、

何の計算もなく、

何の狡猾さもなく、

何のずる賢さもないとき、

まったく何も考えず、

ただあるものを

すべて映しだす

鏡のようになっているとき....

それが明晰さだ。

明晰さとは

鏡のような質をいう。

そして明晰になることが

神に直面することだ。

神を知識で知ることはできない、

神は明晰さによって知られる。

神は利口な頭や、

小賢しい知恵によって

知られるのではなく、

天真爛漫なこころによって知られる。

天真爛漫であることが明晰さだ。

イエスが

「幼子のようにならないかぎり、

 私の王国に入ることはできない」

と言うのはそのためだ。

彼は何を

言おうとしているのだろう?

彼はただ

こう言おうとしている....

その内なる空が

まだ雲に覆われていない、

その鏡がまだ

ほこりで汚れていない、

その知覚が

一点の曇りもなく澄みきっている

幼い子どものように

清らかにならないかぎり……。

彼はものをあるがままに

見ることができる。

彼はそれをゆがめないし、

ゆがめることで

利を得ようとはしない。

彼は投影せずに、

どんな状況も

すべてありのままに見る。

彼は受動的な鏡になっている....

それが明晰さだ。

まだはっきりつかめないなら、

仏教徒の三つの観想....

空観(くうがん)、

仮観(けかん)、

中観(ちゅうがん)...

を使って説き明かしてみよう。

この仏教徒の三つの観想は、

最も優れた

瞑想の方便のひとつだ。

いいかね、

それは方便であって、

哲学ではない。

それを哲学ととらえてしまうと、

要点を丸ごと見逃すことになる。

それは起こった。

何世紀にもわたって、

仏教哲学に関する

様々な大論文が書かれてきたが、

それは愚にもつかないたわごとだ。

なぜなら、

仏陀は哲学者ではないからだ。

彼はいかなる哲学も

教えなかった。

実際、

彼は反哲学的な姿勢を強く取った。

仏陀が町を訪れるときは、

必ず弟子たちが

先に町に行って、

「哲学的な質問を

 仏陀にしないでください」

と触れてまわるのが

慣例になっていた。

仏陀は

十一の質問のリストを用意していた。

その十一の質問のなかに

すべての哲学が含まれていた....

神について、

天地創造について、

輪廻転生について、

死後の生について等々。

この十一の質問のなかには、

ありうるすべての

哲学が含まれていた。

その十一の質問のリストを見れば、

どんな質問もできなくなる。

そのリストが町中に伝えられた。

「仏陀は哲学者ではありません。

 形而上学者ではありません。

 思想家ではありません!

 だから、こういった質問は

 仏陀にしないでください。

 彼は哲学者ではなく、

 医者としてここに来たのです。

 目が見えなければ、

 薬を調合しますし、

 耳が聞こえなければ、

 手術をします」

仏陀は

「私は医者だ」

と何度もくり返し言っていたが、

彼の名のもとに

壮大な哲学が生まれ、

彼が方便として用いた言葉が

哲学的な教義になってしまった。

例えば、

空(くう)....

「すべては空である」....

これが根本的な原理であると主張する

仏教の教派がいくつかある。

それは方便にすぎない。

それは客観的事物については

何も言っておらず、

人間のマインドについて

あることを言っているだけだ。

それはあなたが明晰になるのを助ける、

ただそれだけのことだ。

仏陀の関心は客観的な事物ではなく、

あなたの明晰さにある。

彼は

「明晰であれば、

 存在の実相がわかる」

と言う。

だとしたら、

客観的な事物について

語ってみてもしかたがない。

まったく何の益にもならない。

それは光や色や虹や花のことを

盲人に語ってみるようなものだ。

それはまったく馬鹿げている。

盲人に昇る太陽のことは

伝えられない。

盲人に銀色に輝く月の光のことは


伝えられない。

盲人に樹々の緑のことは

伝えられない。

盲人にとって

「緑」は何の意味もなさないからだ。

言葉は聞こえてくる....

あなたが「神」という言葉を

耳にするのと同じように、

盲人は「緑」という言葉を耳にする。

あなたは理解しないし、

盲人も理解しない。

その言葉を

何度も何度も何度も

聞いているからといって、

自分は神が何であるかを

理解しているなどといった

馬鹿な考えを抱いてはいけない。

神を理解するためには

神を目で見なければならない。

それ以外に方法はない。

緑を理解するためには

目で緑を見なければならない。

それ以外に方法はない。

Osho - The Secret Of The Secrets


posted by TARA at 22:41| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする