2022年12月09日

OSHOの講話 57



アルダナーリシュヴァル.jpg

三つの基本原理がある。

ひとつめは、

あらゆるものが

に依存し合っているということ。

二つ目は、

生は両極に分かれていて、

この両極は

反発するのではなく

互いに補い合うということ。

三つ目は、

それぞれの内に

両極が含まれており、

単極で存在するものはない

ということ。

インドには

アルダナーリシュヴァル

という概念がある。

これは

道家のアプローチに相当するものだ。

シヴァ神は

男の半身と

女の半身の両方をもつ者として

像に刻まれたり、

絵に描かれたりしている。

彼の半身は男性であり、

半身は女性だ。

これらの像が

西洋人の目に

はじめて触れたとき、

彼らは笑った---

それはとても

馬鹿馬鹿しいものに見えた。

この像は

何を意味しているのだろう?

今では西洋人たちも

その意味を理解している。

それは生の

最も基本的なことがらのひとつだ。

あなたがたもそうだ。

シヴァ神と同じように、

半分と半分だ。

これらの経文は、

この内なる極性に関わっている。

そして

この内なる極性を

越えてゆかないかぎり、

あなたは

一なるものに達することなく、

二つに分かれたままだ。

二十四時間のあいだに、

あなたはひとつの極から

別の極へと何度も移り変わる。

見守ってみるがいい。

あなたは男かもしれないが、

ひじょうに女性的になり、

すぐに傷ついてしまうときがある。

あなたは女かもしれないが、

日中にひじょうに

男っぽくなるときがある。

女性が男性的になるときには、

彼女はこのうえもなく

攻撃的になる---

男がとても太刀打ちできないほど

攻撃的になる。

それは女性の攻撃性が、

人が手をつけていない原野のように、

ごく新鮮で、

使い古されていないからだ。

そして、

それは男の場合にも当てはまる。

男がやさしくなるときには、

彼は本当にやさしくなる、

女よりもやさしくなる。

なぜなら、

それは原野であり、

彼の実存のその部分は

使い古されていないからだ。

それは新鮮で、

ひじょうにいきいきとしている。

だから、

あなたがもう少し注意深くなれば、

この奇妙な現象を

何度も何度も目にするだろう。

女性は概して愛情に満ちているが、

男性は概して冷淡だ。

女性はまれにしか

言い争うことはないが、

そうするときには徹底している。

男が愛情深くなることは

めったにないが、

そうなるときには徹底している。

それは彼らの実存の

使い古されていない部分だ。

それらが使われるときには、

みずみずしさがある。

この内なる極性ゆえに、

人は一種の苦悶、

葛藤のなかに置かれているが、

人はそれなくしては存在しえない。

<一なるもの>は

不可視のままだ---

神が目に見えないのはそのためだ。

目に見えるものとなるため、

<一なるもの>は

二つにならなければならない。

黒板に白いチョークで

書かなければならない。

そうしてはじめて

これらの言葉は

目に見えるようになる。

存在するために、

人はコントラストを必要とする。

昼間は星が見えず、

夜間に見えるのはそのためだ---

夜の暗闇が背景となっている。

昼間でも

夜と同じ数だけ星はある---

星はどこかへ

行ってしまうわけではない、

どこにもゆくはずがない。

星は同じ位置にある。

夜になるとやってきて、

昼になるとどこかへ

姿を隠すというわけではない。

星は同じ位置にあるのだが、

昼間はコントラストが欠けている。

だから星を見ることができない、

それは目ではとらえられない。

神は不可視だ。

神は二つに、

男と女にならなければいけない。

物質と精神にならなければいけない。

肉体と魂にならなければいけない。

これとあれにならなければいけない。

二つのものだけが目に見えるからだ。

世界は”二つのもの”から成り立っている。

世界は二元的だ。

この二元性を

<一なるもの>のなかに

消し去らせることができるなら、

そのとたんに、

あなたは目に見えなくなる。

この言葉には

深い含みがあるが、

それはあくまでも隠喩だ。

老子の姿が見えなくなるとか、

私の姿が見えなくなるという

意味ではない。

あなたがたは

ずっと私を見ているが、

それでも

この私を見てはいない。

その部分は

不可視のものになっている。

内側では両極が消え失せ、

二元性はもはやそこにはない。

二元的なものだけが

見ることができる。

非二元的なものは

目に見えなくなる。

神は

二つにならなければならない。

そうしてはじめてゲームが、

遊戯が可能になる。

古代インドの聖典には

「彼は深い孤独を感じた」

と書かれている。

「彼」とは神のことだ。

彼は深い孤独を感じた。

彼は他者に恋い焦がれ、

そのために二つになった。

彼は男と女になり、

雌牛と雄牛になり、

そしてその分裂が

延々と続いてゆく。

森羅万象のすべてが性的だ。

「性的」という言葉で

私は二元性を意味している。

森羅万象のすべてが性的だ。

いずれ科学は、

男の惑星があり、

女の惑星があることを

発見するだろう。

そうであって当然だ。

古代の占星術はそう言っているし、

私はそれにまったく異論がない。

あらゆるものが二元的だ。

太陽が男性の象徴とされ、

月が女性の象徴とされるのはそのためだ。

それは詩ではない。

それは事実だ。

科学はまだ

それを発見していないかもしれないが、

そうであるにちがいない。

あらゆるものが二元的だとすれば、

例外などひとつもありえない。

女性あるいは

男性に惹かれることで、

人は人としての姿を取り続けている。

さあ、

これでなぜ、

いつの時代にも

偉大な神秘家たちが

性超越の方法を説いてきたかが

理解できるだろう---

性を超越しないかぎり、

神への参入は起こらない。

性を超越しないかぎり、

けっして”二”の超越は起こらない。

人は二元的な世界に

つながれたままだ。

”世界”とは

姿を顕した神のことであり、

”神”とは

再び姿を潜めた世界のことだ。

それもまた二元に---

姿を顕した状態と

姿を潜めた状態に分かれている。

キリスト教神学の見解は

あまり深くはない。

それはきわめて表面的だ。

キリスト教神学には創造しかない。

破壊はどうなるのだろう?

破壊なくして

どうして創造がありえるだろう?

東洋の神学にはその両方がある。

スルシュティは創造を意味し、

プララヤは破壊を意味する。

神が姿を顕す瞬間があり、

神が再び姿を潜める瞬間がある---

最初に語ったように、

人間と同様、

あらゆるものが

<無>のなかに消えてゆき、

ゼロになる。

恋人とともにいると、

人はうんざりして、

瞑想をしたくなり、

ヒマラヤへ行きたくなる。

神もまた

世界にうんざりしてしまう。

それは自然のなりゆきだ。

神は休息を取りたくなる。

そこで神は

<一なるもの>のなかへ消えてゆく。

続いて溶解が起こり、

あらゆるものが消え失せてゆく。

だが人はいつまで

ヒマラヤの洞窟に

座っていられるだろう?

神ですらうんざりしてしまう。

神は再び相手を探し求めだし、

創造に着手する。

それとまったく同じことが

ひとりひとりの

魂のなかでも起こる。

あなたは生を生き、

疲れて、

生を離脱したくなる。

あなたは

肉体を使って生きてきたが、

疲れてしまっている。

あなたは今度は

肉体を超越したくなる。

そうなったら、

あなたはなぜ私が

「世間を恐れてはいけない。

 世間から逃避してはいけない」

としきりに言うのか

理解できるだろう。

なぜなら、

世間こそ

真の放棄が起こる場所に

他ならないからだ。

それは一方の極だ。

私が

「女性あるいは男性から逃げ出せ」

と言わないのはそのためだ。

逃げ出したら、

思いは消えずに残る。


完成714.jpg


逃げてはいけない。

それをとことん生き抜くのだ。

世間にどっぷり身を浸していると、

「もう充分だ、

 消え去って

 完全な孤独のなかに入ってゆきたい」

という感覚が起こりはじめる。

人は本当に疲れ果てて

はじめて完全な孤独のなかに

入ってゆくことができる。

人々はきっと

私を誤解することだろう。

インドで私ほど

誤解されている者はいない。

彼らは私が人々に

耽溺することを

教えていると思っている。

私は放棄を教えている。

彼らは私が

世俗的なサニヤスを

教えていると思っている。

彼らは理解していない。

私が教えているのは

真のサニヤスだ。

真のサニヤスは

世俗的な経験を経て

はじめて生まれてくるものだからだ。

真のサニヤスは

ヒマラヤの洞窟のなかでは起こりえない。

それは本物ではなく、

押しつけられたものだ。

人は深いところでは

世俗的なままであり、

世間にあこがれ、

世間を夢見続けている。

世間を生きなさい。

とことん生きなさい。

そうすれば、

うんざりし、

疲れ果て、

あなたは世間にけりをつける---

とことん生きれば、

ある日突然、

世間はいっさいの意味を失い、

放棄が起こっている。

私にとって、

真の放棄は

俗世の只中マーケットプレイスで起こる、

俗世の只中においてはじめて起こる。


Osho - The Secret Of Secrets


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2022年11月23日

OSHOの講話 56


B15.jpg

だが、

まず理解しなければならないのは、

あなたは催眠術にかけられているから、

その催眠を解くプロセスを

通り抜けなければならないということだ。

いいかね、

あなたは条件付けられているから、

その条件付けを解かなければならない。

死がやって来つつあるのだということを

覚えておきなさい。

死は今日は起らないと考えてはいけない。

死はいついかなる時でも起こりうる。

実際、

すべてのものごとはつねに今起こる。

種子は今死に、

つぼみは今花になり、

鳥は今鳴きはじめる。

すべてのものごとは

今この瞬間がもたらす空間でのみ起こる。

過去では何も起こらず、

未来では何も起こらない。

すべてのものごとは

つねに現在において起こる---

ものごとはそのようにしか起こらない。

現在が存在する唯一の時間だからだ。

過去とはあなたの記憶にすぎない。

そして未来とは

あなたの空想にすぎない。

ところがあなたは

過去に生きるよう

催眠術をかけられている。

未来に生きるよう

催眠術をかけられている。

過去か未来のどちらかを選ばせはしても、

社会は

あなたが現在に生きることは許さない。

C8.jpg

キリスト教徒や

ヒンドゥ教徒や

イスラム教徒たち---

彼らは過去に生きるよう

人々を条件付ける。

彼らの黄金時代は過去にあった。

共産主義者、

社会主義者、

ファシストたち---

彼らは未来に生きるよう

人々を条件付ける。

彼らの黄金時代は未来にある。

ユートピアがやって来つつある。

「革命が起れば、

 本当にいきいきと生きることができる。

 そうなったら黄金時代が訪れる。」と。

人は実在しない過去に連れてゆかれるか、

あるいは、

やはり実在しない未来に連れてゆかれる。

どの社会も現在に生きなさい、

今ここを生きなさいとは教えない。

サニヤシンであるとは、

真の探求者であるとは、

今ここを生きるということだ。

そして今ここを生きる以外に生はない。

だが、

そうするためには、

かけられた催眠を

解かなければならない。

あなたは機械ではなく、

人間にならなければならない。

あなたはもう少し

意識的にならなければならない。

あなたは意識的ではない。



私は死んでゆく男のそばに

座っていたことがある---

彼とは同じ大学の教授仲間だった。

彼は輝かしい経歴の絶頂にあった。

ところが、

そのとき彼は心臓発作に襲われた。

心臓発作はいつも

人が頂点を極めたときにやってくる。

成功の後には

つねに心臓発作がつき物だ。

成功をおさめたあと、

他に何が得られるだろう?

そこで彼は心臓発作を起して

死の床についていた。

私は彼に会いに行った。

彼は深い悲しみに沈んでいた---

誰が死を望むだろう?

彼は絶望に打ちひしがれ、

悲しみに悶えていた。

私は彼に言った。

「心配することはない。

 君は死んだりしないよ」

彼は言った。

「何を言ってるんだ?

 医者たちはだよ、

 医者たちは口をそろえて

 回復する見込みは

 まったくないと言ってるんだ。

 君は何を根拠に

 僕が死なないというのかね?」

私は言った。

「君はそもそも

 死ぬことなどできないよ。

 というのも、

 君は一度も生きたことがないからだ。

 君は死ぬための

 第一条件を満たしていない。

 この50年間、

 君は夢遊病者のように生きてきた。

 君は夢を見ていたんだ。

 君は一度も生きたことがない。

 私は君を何年も見守ってきたんだ」


彼はショックを受け、

腹を立てた---

あまりに腹を立てたので、

しばらくのあいだ

死のことなどすっかり忘れてしまった。

怒りに燃えた目で

にらみながら彼は言った。

「死んでゆく人間に向かって

 それはないだろう。

 少しは思いやりがあっても

 いいじゃないか。

 どうしてそんなに

 ひどい態度をとるんだ?

 死んでゆく相手に向かって

 大した哲学を並べるじゃないか---

 『君は一度も生きたことがない』だって。

 こんな時に

 よくそんなことを口にできるね?」

私は静かに聴いていた。

私はひと言もしゃべらず

黙っていた。


すると激しい怒りが消えて、

彼は泣き出した。

彼の目には涙があふれた。

彼は愛を込めて私の手を握ると、

こう言った。

「君が正しいのかもしれない。

 私は一度も

 生きたことがなかったんだ。

 たぶん君は不作法じゃなくて、

 真実を言っただけなんだ。

 それに私にこんなことが言えるのは

 君だけだ。」



そのあと深い感謝が湧き起こり、

しばらくのあいだ、

その顔にぱっと光がさすのが見えるほど

彼は意識的になった---

光がそこにあった。

彼の存在はオーラに包まれていた。

そして彼は「ありがとう」と言った。

その夜、彼は死んだ。

私は最後の瞬間まで彼のそばにいた。

彼は言った。

「もし君がここにいなかったら、

 私は生を取り逃がしてきたように、

 死もまた取り逃がすところだった。

 だが、私は意識して死んでゆく。

 少なくとも一つだけ嬉しいことがある---

 私は無意識のまま死んでゆくのではない。」


そして彼の死は美しかった。

彼は何も思い残さずに息を引き取った。

彼は安らかに死んでいった。

彼は「ようこそ死よ」と言わんばかりの心境で

死んでいった。

彼は感謝に満ちて死んでいった。

彼は祈りのうちに死を迎えた。

彼の次の生はきっと必ず

異なる質をおびるにちがいない。

死がそうまで美しければ、

その死はあなたに新しい生をもたらす。


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2022年10月31日

OSHOの講話 55


FP.jpg

新しい人間は、

この狂気の過去と断絶する。

彼は、

戦争ではなく、愛を信じる。

彼は、

死ではなく、生を信じる。

彼は、

破壊的ではなく、創造的だ。

彼の科学や芸術は皆、

創造性に寄与する。

彼は、

原爆を創ったりしない。

彼は、

政治的にはならない。

何故なら、

政治は憎しみから来ているからだ。

政治の根は、

恐怖や憎しみや、破壊性だ。

新しい人間は、

政治的にはならない。

新しい人間は、

愛国的にはならず、

地球的になる。

彼は、

政治的な野心を持たない。

何故なら、

政治的な野心を持つことは

馬鹿げているからだ。

新しい人間はとても知性的になる。

知性の最初の兆候は、

地平線の上に上がってきている。

見る目を持っていたら、

それを見ることができる。

子供たちは

反逆するようになってきている。

教会の正統派でも、

国の正統派でも同じことだが、

世界中の若い人が、

あらゆる種類の正統派に反逆している、

そういう瞬間に

居合わせているといういことは、

とても祝福すべきことだ。

彼らは、

服従するつもりがない。

彼らは、

反抗しようと決めた訳でもない。

彼らは反抗するつもりもない。

彼らは瞑想をする。

そして、

従う感じがあればそれに従うし、

従わない感じがあれば、従わない。

彼らは、

決まったイデオロギーを持たない。

「私の国は、正しい」とか

「間違っている」とか、

彼らには、

そんな馬鹿げた発言はできない。

それは、

間違っているときもあれば、

正しいときもある。

正しいときは、

新しい人間はそれを支持するし、

間違っているときは・・・

それが自分の国かどうか、

問題ではない。

それは、

自分の家族かもしれない。

父かもしれないし、

母かもしれないが、

間違っているときは間違っているのだ。

新しい人間は、

先入観から生きるのではなく、

瞬間に対して

責任をとることによって生きる。

古い人間は奴隷だった。

新しい人間は自由だ。

新しい人間は、

彼の存在の核心において自由だ。

古い人間は深刻で、

仕事中毒だ。

新しい人間は、

遊びに満ちている。

ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)だ。

彼は、

人生を楽しむことが

よいことだと思っている。

彼は、

「義務」や

「犠牲」といった言葉を使わない。


彼は、

どんなものに対しても

犠牲になろうとは思わない。

彼は、

どんな祭壇の生け贄にもならない。

宗教の生け贄にならないし、

聖職者たちの生け贄にもならないし、

政治家の生け贄にもならない。

彼は、

誰に対しても

自分の生を搾取することを許さない。

「あなたの国が戦争しているんだから、

 行って死になさい」

と言われることは許さない。

彼が責任をとるのは、

人生に対してであり、

それ以外に対してではない。

彼は、

喜びに満ちて生きたい。

彼は、

神の贈り物の全てに歓喜していたい。

彼は、

祝祭のうちにいたい。

ハレルヤが、

彼の唯一のマントラだ。

イエスは言った。

「歓喜しなさい。

 歓喜しなさい。

 私は、

 歓喜しなさいとあなたに言う」

人は、

未だに歓喜していない。

人は、

深刻さという

途轍もない重荷の下に生きてきた。

国のために働きなさい。

家族のために働きなさい。

妻のために働きなさい。

子供たちのために働きなさい。

あなたの父母のために働きなさい。

ただ働き続けて、

いつか死んで

墓の中に消えていきなさい。

そうしたら、

他の人が働くことになる。

それは、

ずっと続いていく。

誰も、

人生を楽しむ時間を

持っていないように見える。

私は何も、

新しい人間が

働かないと言っているわけではない。

彼は働くだろうが、

それに中毒することはない。

彼は仕事中毒にはならない。

仕事は麻薬にはならない。

彼は、

いくらかのものが必要だから働く。

しかし彼は、

より多くのものを

ほしがって働き続けることはない。

彼は貯め続けることはしない。

彼は、

多くの銀行預金を持つことが

価値あることだとは思っていない。

また、

とても高い地位につくことが

価値あることだとも思っていない

それより、

彼は歌を歌いたい。

フルートを吹きたい。

ギターを弾きたい。

ダンスを踊りたい。

彼は、

有名になりたくない。

彼は、

生きたい。

誠実に生きたい。

彼は、

誰でもない人になる用意がある。

そして、

それは既に起きつつある。

最初の一条の光が、

もう機能しだしている。

それは、

まだ朝の靄の中に隠れているが、

あなたが探すなら

見つけることができる。

新しい子供たち、

新しい世代は、

全く違う世代だ。

だから世代間ギャップがある。

本当にそうだ。

これまでに、

こんなことはあった試しがなかった。


以前には決して

世代間ギャップはなかった。

人間の歴史を通して、

ギャップがあるのは今が初めてだ。

子供たちは親とは違う言葉を話す。

親たちは、

子供だちに成功してほしいので、

彼らを理解できない。

そして、

子供たちは言う、

「成功することにどんな意味があるの?

 歌を歌えないのに、

 ダンスを踊れないのに、

 楽しむことができないのに、

 愛することができないのに。

 成功することにどんな意味があるの?

 何故なの?

 成功することで何が起こるというの?

 全世界が僕の名前を知ったからと言って、

 それで何を得るというの?」と。

古い世代は、

お金に価値があると思っている。

そして、

お金を放棄した人たちでさえ

骨の髄まで

お金の価値を信じていることに、

あなたは驚くだろう。

彼らはお金の価値を信じている。

そうでなければ、

それを放棄する必要はない。

そして、

放棄を賞賛する人たちも

お金の価値を信じている。

あなたが

多くを放棄すればするほど、

あなたは偉大になる。

だとすると、

基準はお金だ。

お金が判断基準のままだ。

世間では、

お金を持つほどあなたは偉大だ。

僧の世界でも同じだ。

「どれだけあなたが放棄したか?」

あなたが放棄すればするほど、

あなたはより重要人物になる。

そこでも、

お金が重要なものであり続けている。

新しい世代は、

お金マニアにはならない。

だが覚えておきなさい。

私は何もお金に反対している訳ではない。

彼らもお金を使う。

過去には、

お金が人を使ってきた。

過去には、

人が物を所有していると思っていても、

実際は物が人を所有するというように、

人は無意識な生を生きてきた。

新しい人間は、

物を使うことができる。

新しい人間は、

お金を使う。

テクノロジーを使う。

しかし、

新しい人間は、

その主人であり続ける。

彼は、

生け贄にはならない、

道具にはならない。

私にとって、これが最大の出来事だ。


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