2023年02月01日

OSHOの講話 63


『なぜ、仏陀はブッダであって

ボーディサットヴァ(注:菩薩)ではないのでしょうか?』



まず、これら三つのことが理解されなければならない


一つは、人間のマインドの通常の状態…

あなたがこの世、此岸にしがみついていて、

彼岸は架空のものに見える状態だ

あなたは彼岸を信じることができない

あなたがあまりにも此岸にしがみついているので

唯一の問題は、

どうやって執着を解くのを助けたらいいかということだ


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サンデハ(*注:質問者のサニアスネーム)

いまはボーディサットヴァであることを

考えはじめても役に立たない

それは助けにならないし、

危険だ

それは此岸にしがみつく策略になるだけだ

あなたはまだ此岸から自由になっていない

だからこれは、

またこの世界への新しい執着の仕方になる

それは実に巧妙だ 

いまやそれは

宗教、慈悲、人々への愛、奉仕、

という美名のもとに在るようになる

それは偉大な観念となる

「私は人々を救うためにここにいる

私が彼岸へ行かないのはそのためだ」

そしてあなたは彼岸へ行きたがらない

あなたは彼岸があることを知らないし、

彼岸があることさえ信じない

いまやあなたは

極めて微妙で巧妙な罠のなかに落ちいっている


これが普通のマインドの第一段階だ

この段階のマインドは

世界に執着する

そしてますます執着するための

新たな口実をさがし続ける

その執着を解くのは非常に難しい


二番目の段階は、

ボーディサットヴァの段階…

彼岸に跳ぶ用意ができている者、

もうこの世界にはどんな根もない者の段階だ

そういう無執着の境地に達した者の段階だ


第一段階では執着を解くことが難しい

第二段階では執着することが難しい


『ダイヤモンド・スートラ』は

第二段階の人達のためにある

第一段階の人達のためのものではない


まずあなたは執着を

解かなければならない

自分の根をことごとく破壊したとき、

はじめてあなたは他者を助けることができる


さもなければ、

あなたは何の役にも立たない

あなたは何も分かち合うものをもたない

「私は人々を愛している」と

信じ続けることはできるが

あなたにはまだ愛はない

依然として、

あなたは人々が自分を愛してくれることを望んでいる

依然として、

あなたは乞食のままだ

まだ、

理由なく分かち合う喜びのために

愛を分かち合う状態には至っていない


まず第二の段階まで行きなさい

まずあなた自身を完全に

エゴのない状態にしなさい

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この世界のなかにおろした

あなたの根をみんな破壊しなさい


欲ばりにならないことだ

そのときはじめて、

仏陀の言っていることが

あなたにふさわしいものになる


それから次の問題が持ち上がる

はじめの問題はどうやって

執着を解くかということだ


次の問題はどうやって

もう少し執着するかということだ


仏陀は、

あなたにどんな根もなくなったとき、

あなたはここで必要とされる、と言う

そのときには、

あなたは分かち合う何かを持つ

そのときには、

あなたは分かち合うダイヤモンドを持つ

そのときには、

立ち去る前に分かち合いなさい

そしてできるだけ長くここにとどまりなさい

これが第二段階だ


第三段階は、すでに彼岸に到達した

ブッダの段階だ…


さて、あなたはこう訊ねている

『なぜ仏陀はブッダであって

ボーディサットヴァではないのですか?』


第三段階はさらに難しい

彼岸にいながら、

なおかつ此岸にもいるということは

最も難しいことだ


彼岸にいながら、

なおかつ人々を助け続ける

ということは最も難しいことだ

だから、

これらがその三つの難問だ


第一に、此岸に対し無執着になること

第二に、その無執着が起こったとき、

此岸にとどまること

第三に、此岸にとどまることができなくなったとき…

…なぜならなら此岸にとどまることが

不可能になる瞬間が来ているからだ

あらゆるボーディサットヴァは

ブッダにならなければならない

あなたは此岸にしがみつくことはできない

それは違法だ

あなたが立ち去らなければならない時点が来る

少しのあいだくらいなら、

執着することは可能だ

せいぜい一生のあいだくらいならね

が、それ以上は不可能だ

そうなったら、

あなたは立ち去らなければならない

一生ぐらいなら執着できる

すべての根は断ち切れられているが

あなたには肉体があるから、

その肉体のなかにとどまることができる

だから

せいぜい一生ぐらいなら執着できる

それからあなたは

立ち去らなければならない

そして、

第三の段階、

ブッダの段階が来る

ブッダとはすでに立ち去っていて、

それでもなお人々を

助け続ける人のことだ

.
だが覚えておきなさい

ボーディサットヴァであって

はじめて人々を助ける第三段階に入ることができる

さもなければ

第三段階には入れない

.
理解されるべき言葉が二つある

ひとつはアルハット(阿羅漢)、

もうひとつはボーディサットヴァ(菩薩)だ

.
アルハットとは…

実はその二つは同じ境地なのだが…

彼においては世界は断ち切られ、

もはや愛着はなく、エゴは消えている

だが彼はただちに彼岸へ行く

彼はアルハットと呼ばれる

彼は他者のことは気にかけない

彼は用意ができたら、単純に彼岸へ行く

アルハットは彼岸から救いの手を

差しのべることはできない

なぜなら彼は助け方を知らず、

これまで一度も助ける訓練をしたことがないからだ

.
ボーディサットヴァも

アルハットと同じ境地にいる

彼は知った、彼は見た

彼は真理になった

だが彼はもう少し此岸にとどまる

そしてあらんかぎりの

手段を尽くして人々を助け続ける

彼はその助ける道を学んでいる

もしあなたが

ボーディサットヴァになって

それから彼岸へ行ったら…

彼岸ではアルハットもブッダになり、

ボーディサットヴァもブッダになる

彼岸とは

ブッダフッドの岸辺だからだ

だが、

此岸でボーディサットヴァだった者は

彼岸からも助けることができる

彼はさまざまな道や

手段を見つけ出す

仏陀は何世紀にもわたって

助け続けている

いまでも、

あなたが仏陀に心を開けば

その助けはあなたにやって来る

いまでも、

情熱をこめて仏陀を愛すれば

その助けはあなたにやって来る


彼はいまなお彼岸から呼んでいる

だがその彼岸からの呼びかけは

あまりにも遠い

あなたはきわめて注意深く、

耳を傾けなければならない

私に耳を傾けるよりはるかに

注意深くあらねばならない

なぜなら、その声は

「彼(か)の岸辺」からやって来るからだ


遅かれ早かれ、私も行く

もし私を注意深く耳を傾けるすべを学んだら、

あなた方の多くは彼岸にいる私を

聴くことができる


ブッダは意識の究極の状態だ

ボーディサットヴァフッドを通過したら、

あなたはこの世に対し、

ひらいていられる

あなたは永遠に神への窓になる

.
もしボーディサットヴァフッドを通過しなかったら、

あなたは

『無限』のなかに消えはするが、

あなたに助けられる人は

誰ひとりいない


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2023年01月27日

OSHOの講話 62


愛はあなたを真実にする。

それがなければ、

あなたは

実体のない幻想のままで、

夢のままでいることだろう。


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愛はあなたに実体を与える。

愛はあなたに統合を与える。

愛はあなたに中心を与える。


しかしそれは

旅の半分に過ぎない。


あとの半分は

瞑想の中で、

気づきの中で

完結されなければならない。


でも

愛はもう片方の

半分を準備してくれる。

愛は最初の半分で、

気づきが後の半分だ。


それに伴う痛みを受け入れて、

それを通り抜けていきなさい。


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そうだ。

それは傷つける。


しかしあなたが

愛のうちにあれば、

なんということはない。

実際には、

そのどの傷も

あなたを強くしてくれる。

ときには

あなたをものすごく、

酷く傷つけることもある。


しかし

そのどの傷も

あなたを挑発するのに、

あなたの真価を問うのに、

あなたの居眠りを壊すのに

必要なものだ。


それらの危険な状況はどれも、

あなたを油断無くするために

必要なものだ。


愛は地面を整え、

愛の土壌の中で

瞑想の種が成長できる。


そして、

愛の土壌でしかそれは起こらない。

だから恐怖により

この世間から逃げだす者は、

瞑想に到達することはない。

彼らは何生にも渡って

ヒマラヤの洞窟に

座り続けることはできても、

瞑想に到達することはない。

それは不可能なことだ。

彼らはそれを

稼ぎ取った訳ではないからだ。


先ずそれは、

世間で稼ぎ取る必要がある。

先ず彼らは

土壌を整える必要がある。


そして愛だけが、

土壌を整える。

だから私は、

私のサニヤシンに

世間を捨てないように

要求するのだ。


その代わり世間の中にいて、

その挑戦を受け入れ、

その危険性を、

その苦痛を、

その傷の痛みを受け入れなさい。

それを通っていきなさい。

それを避けてはいけない。

近道などないのだから、

それを見つけようとしてはいけない。

それは苦闘だし、

骨が折れるし、

困難な仕事だ。

しかし

人はそのようにして頂上に到る。

そうすれば、

ヘリコプターで

頂上に降り立つより喜びは増す。

はるかに多くなる。


何故なら、

ヘリコプターの場合

成長しないうちに

到着することになるからだ。

あなたはそれを

楽しめないだろう。

その違いを考えてみなさい。

あなたは大変な思いをして

エヴェレストに達する。

とても危険だ。

途中で死んでしまいかねないし、

決して頂上に到達しないことは

大いにありえる。

無謀で危険だ。

足を踏み出す毎に

死が待ち構えており、

とても多くの罠がある。

成功するよりも

はるかに多くの

失敗の可能性がある。

あなたが到達する可能性は

百に一つしかない。


しかし、

あなたが頂上に近づくにつれて

大きな喜びが生まれる。

あなたの魂は高く舞い上がる。

あなたがそれを勝ち取ったのだ。

それはただではなかった。

あなたが払ったものが大きいほど、

その喜びは大きい。


考えてみなさい。

あなたは頂上に

ヘリコプターで

連れて行ってもらうこともできる。

あなたは頂上に立つが、

ちょっと愚かで

バカみたいだと思う。

自分はここで何をしているのか、

と。


5分以内に

あなたの関心は終わってしまい、

こう言うだろう。

「わたしは見終わった。

 ここには大したものはない」

と。


旅がゴールを創り出す。

ゴールは旅の先に

はじめから座っているのではない。

旅が、

その歩みの一歩ごとに

ゴールを創る。



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旅がゴールなのだ。


旅とゴールは別れてはない。


それは二つののものではない。


目的と手段は

二つのものではない。


目的地は、

道のすべての場所に渡って

分散している。

全ての手段が

その内に目的地を含んでいる。


だから、

どんな生きる機会も

逃してはならない。


生き生きする機会を、

責任を負う機会を、

引き受ける機会を、

全面的に関わり合う機会を、

逃してはならない。


臆病になってはいけない。


生に直面しなさい。


それに出会いなさい。


そうすれば、

次第にあなたの内側の

何かが結晶化してくる。


・・・


しかし、

人はそれを

稼ぎ取らなければならない。


繰り返させてほしい:

人生では、

何もただで得ることはできない。

もしただで得たなら、

それは役に立たない。

あなたは支払わなければならない。

そして支払いが多ければ多いほど、

あなたは

それから多くを

受け取ることができる。


もしあなたが

愛に全ての人生を掛ける

リスクをとれるなら、

あなたが得るものは

すばらしいものになるだろう。


愛はあなた自身を

あなたに送り返してくる。


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それはあなたに

瞑想の影を見せてくれるだろう。

瞑想の最初の一瞥が

愛のうちに起こる。


すると、

あなたの中に

その一瞥を実現したいという

大きな望みが生まれる。

単に一瞥ではなく、

あなたがその状態に

永遠に生きることができるような

そんな状態を実現したいという望み。


愛はあなたに

瞑想の味を教えてくれる。

愛におけるオーガスムの経験は、

サマディーの、

エクスタシーの最初の経験だ。


それはあなたに

もっと渇きを与える。

今やあなたは

何が可能かを知り、

もうありふれたものでは

満足できない。


聖なるものがあなたを貫き、

聖なるものが

あなたのハートに届いた。


神があなたのハートに触れ、

あなたはその感触を感じた。


今やあなたは

その瞬間を永遠に生きたい。

あなたはその瞬間が

人生全体になってほしい。


それは確かにそうなる。

そうならなければ、

人は満足できない。


愛は一方では

あなたに

大きな喜びをもたらし、

一方では

永遠の喜びに対する

渇きをもたらす。



Osho - The Secret of Secrets


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2023年01月01日

OSHOの講話 61


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〈生〉は

ひとつの有機体だ。

何ひとつ

分割されてはいない。

あらゆるものが一体だ。

もし、

それを

分割されていると

考えるなら、

その分割は

マインドによって

押しつけられたものだ。

さもなければ、

あらゆるものは

混ざり、溶け込み、

他のものの中に

融合している。

これが

四六時中

起こっていることだ。

それが

見えないのは、

人が言葉によって

完全に

盲目にされているからだ。

果物をひとつ食べるとする。

その果物は自分の血になる。

その木が自分に混ざり、

境界はなくなった。

それにその果物は

それまでたくさんの人の

血であったかも知れない。

いろいろな動物や、

いろいろな植物や、

さまざまな岩で

あったかも知れない。

果物であるこのエネルギーは、

常に存在の中にあった。

融解し、

溶け入り、

溶け出し、

これからあれへと移動し、

あらゆる境界を

通りすぎながら。

どんな現象でもいい。

ちょっと見てごらん。

樹に実ったあの果物は

何をしているのか。

科学者は

果実がやっていることは

奇跡だと言う。

それは、

大地の変容、

日の光の変容、

水の変容だ。

それは奇跡だ。

何しろ、

土を食べることはできないし、

太陽の光を直接

食べることもできないのだから。

この果実、

林檎は奇跡を行なっている。

それはあらゆるものを変容し、

人が吸収できるような物に

しているのだ。

かくして、

それは

人の血となることができる。

そしてこのエネルギーが、

常に動いて来ている。

それは

いつもそこにあったからだ。

エネルギーの全体は

同じままだ。

どこにも行く所がないのだから、

そのエネルギーは

多くも少なくもなりようがない。

宇宙には

何ひとつ加えられもしなければ、

そこから

何ひとつ削り取られることも

あり得ない。

どこへ持って行くと言うのかね。

全体は同じままだ。

ある時、

その果実は土の中にいた。

それを食べることなど

できるはずもなかった。

その果実は太陽の中にいた。

そのビタミンDは太陽の中にあった。

今では、

その果実がそれを吸収している。

今や大地は変容した。

奇跡が起こっている。

奇跡を見るために、

どうして

手品師の所になど行くのか。

それは起こっている…

土が美味しい果実に変わったのだ。

あなたがそれを食べれば、

それは血になる。

その血は絶え間なくかけめぐり、

精子を創る。

今やひとつの種が生まれ、

それは小さな子供になる。

あの果実、

あの林檎は、

今では子供に変わっている。

どこに境界がある。

木はあなたの中に移り、

太陽がその木に移る。

海がその木に移り、

あなたが子供に移り、

それが続いて行くのだ。

あらゆるものが動いている。

あなたの中にある息は、

少し後には私の中にあるだろう。

息は生命だ。

だから、

あなたの生命と私の命は

別物ではあり得ない。

同じ息をあなたも呼吸し、

私も呼吸するのだから。

私が吐き出し、

あなたがそれを吸い込む。

あなたが吐き出し、

私がそれを吸い込む。

あなたの心臓と私の心臓は、

さして別ものではあり得ない。

それはまわりにある

同じ活力の海を呼吸し、

脈打っている。

私はこれを私の息と呼ぶ。

だが、

私がそれを自分のものと

呼び終える頃には

それはもう私のものではない。

それは動き、

棲み家を変えている。

今度は、

誰か別の人の息になっている。

人が、

自分の命と呼んでいるものは、

自分のものではない。

それは誰のものでもない。

あるいはみんなのものだ。

実在を見る者があれば、

その人には

全体が

ひとつの有機体であることが

分かるはずだ。

太陽は

あなたのために働いている。

星は

あなたのために働いている。

世界中の人々が

あなたのために働いている。

海は

あなたのために働いている。

そして

あなたも

その人たちのために働いている。

あなたが死ねば、

虫がその肉体を食べるだろう。

あなたは彼らの食物になる。

あなたは熟し、 死に、

誰か他の者の食物になるための

準備をしているのだ。

そして、

これはそうでなくてはならない。

あなたは実にたくさんのものを

自分の食糧にして来たのだから。

最後には自分が

彼らの食物に

ならなくてはならない。

あらゆるものが、

他の誰かのための食物だ。

それはひとつの鎖だ。

ところが、

あなたは生に執着したい。

では、

林檎はどうなのか…

林檎も生に執着したい。

小麦はどうなのか…

小麦も小麦のままでいたい。

が、

そうなれば、

生は終わるしかない。

生は死を通して生きている。

こちらであなたが死ねば、

向こうで誰かが生きる。

私が息を吐き出す、

誰かが息を吸い込む。

生と死もちょうど

その吐く息と吸う息の

リズムのようなものだ。

生は吸う息、

死は吐く息。

熟すれば、

あなたは大地の上に落ちる。

すると

虫があなたを食べるだろう。

猛禽類が寄って来て、

あなたを

啄(ついば)むことだろう。

あなたは

たくさんの食べ物を楽しんだ。

今度は

あなたが楽しまれる番だ。

あらゆるものが

溶け、出会い、 融合する。

だとすれば

何を思い煩うことがあろう。

これが

起こるべきこと、

これが

すでに起こっていることだ。

全体だけが生きている。

「個」とは偽りだ。

究極なるものだけが

生きている。

他はすべて

その中の波に過ぎない。

それは

やって来てはまた去る。

人が鼻の先の実在を見るなら、

突如として、

そこには何の問題も、

不安もない。

自分が生きていようといまいと、

全体は生き続けるからだ。

では、

自分の死など問題ではないのだ。

それなら、

自分の生だって問題ではない。

自分は全体の中で

何百万、何千万の姿で

生きて行くだろう。

時には、

自分は果物になるだろう。

これがヒンドゥー教の、

何百万のヨーニという概念の

意味するものだ。

ある時、

自分は獣だった。

またある時、

自分は昆虫だった。

またある時は木だった。

またある時は岩だった。

かくて生は続く。

だから、

ある意味では

あなたは誰でもないのだ。

そしてまた別の意味では、

誰でもある。

ある意味では

あなたは虚ろであり、

また別の意味では、

充満している。

ある意味では

あなたは存在しない。

また別の意味では

すべてでもある。

それは、

あなたが

切り放されてはいないからだ。

分離が不安をもたらす。

もしあなたが不安なら、

苦悩しているなら、

それは、

あなたが

自分を切り放されていると

思っているということだ。

あなたは自ら

不必要な問題を作り出している。

そんな必要はない。

なぜなら

全体は生き続けるのだから。

全体は決して死なない。

死ぬことができない。

部分だけが死ぬ。

だがその死は、

本当は死ではない。

それは再誕だ。

あなたはここで死に、

別のところで生まれている。

“一即一切の世界を歩み、

 識別することなく融解し去れ。

 この覚醒に生きることが、

 不完了を思い煩わずに生きることだ。”

それなら、

どうして完成について

思い煩う必要があろう。

それもまた利己的な目標だ。

これは本当に

深く理解されるべきことだ。

なぜなら、

宗教的な人々でさえ

完全であろうとするからだ。

だが、

完全であろうという

あなたとは誰か。

全体しか

完全ではあり得ない。

あなたは決して

完全ではあり得ない。

どうして完全であり得よう。

覚者でさえ、

病気にならなければならない。

覚者も死ななければならない。

人は完全ではあり得ない。

完全という目標そのものが

エゴ・トリップだ。

全体はすでに完全だ。

それについて心配する必要はない。

その全体の中にあって、

あなたもまた完全なのだ。


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Osho - Neither This Nor That



posted by TARA at 16:07| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする