2022年02月15日

OSHOの講話45【祝祭】

タロットカードがそのまま講話になっている♪

そんな講話に時々出会あうので

これからはご紹介していこうかなと思っています。


言葉はあくまでも言葉なので

意味が180度違って認識していたり

気にしているからこそ

葛藤が生じてしまうこともあります

OSHOの講話をダイレクトに観じて

受け取っていただいたカードが

生き生きと響きますように。


今日のシェアしたいのは

【祝祭】

W3.jpg

不安・悲しみ・恐れetcいろいろと

避けたいものは避けたい・・・


貫くこと・頑固なこと

流されること・受け容れること

微妙だけど大きな差、

過去のままを続けてしまっていることに

目を向けたら、気づき、去らせることができる。。。

祝うことはいつでもできる、増やせられる、

そんな本質こそがあなたですよ、と。


ーーー


幸せはひとつの極、

悲しみはもう一方の極だ。

至福はひとつの極、

惨めさはもう一方の極だ。

生は両極を含んでいる。

至福だけの生には、

横への広がりはあるが、

深みがない。

悲しみの生には、

深みがあるが、

広がりがない。

悲しみと至福の両方からなる生は

多くの次元にわたる。

それは同時に

すべての次元のなかを動く。

仏陀の彫像を見てごらん。

あるいは時々、

私の目をのぞき込んでごらん

あなたは両方を同時に

見出すだろう。

至福、平安、悲しみもだ。

あなたは悲しみを含んでいる

至福を見出す。

なぜなら、

その悲しみが至福に

深みを与えるからだ。

仏陀の彫像を見守ってごらん

至福に満ちている、

が、それでいて

悲しみをたたえている。

<悲しい>というまさにその言葉が

あなたに何かが悪いという

間違った連想を促す。

これはあなたの解釈だ。

私にとって、

生はその全体において

よいものだ。

そして、

生をその全体において理解するとき、

そのときにのみ、

あなたは祝うことができる。

さもなければ、だめだ。

祝祭とは、

何が起ころうとかまわない、

私は祝う、

という意味だ。

祝祭は、

「幸せなら祝おう」とか、

「不幸せなら祝わない」というように、

ある決まったものごとに

条件付けられるものではない。

祝祭は無条件だ。

私は生を祝う。

生が不幸せをもたらす

けっこうだ、

私はそれを祝う。

生が幸せをもたらす

けっこうだ、

私はそれを祝う。

祝祭が私の態度であり、

生が何をもたらそうとも

無条件だ。

しかし、問題が生じる。

なぜなら、

いつであれ私が言葉を使うと、

それらの言葉が

あなたのマインドに

連想を引き起こすからだ。

私が「祝いなさい」と言うと、

あなたは、

人は幸せでいなければならないのだ、

と考える。

悲しいのにどうして祝えるのか?と。

私は、人が祝うためには、

幸せでなければならない、

とは言っていない。

祝祭とは、

何であれ生があなたに与えるもの、

何であれ神があなたへ

与えるものへの感謝だ。

祝祭とは謝意だ。

それは感謝だ。

あるスーフィーの神秘家が

とても貧しく、

空腹で見捨てられ、

旅に疲れていた。

夜になって彼は

ある村へ行ったが、

その村は彼を

受け容れようとしなかった。

その村は保守的な人々の村だった。

そして、

保守的な回教徒がいるとなると、

説得するのは非常に難しい。

彼らは町の中の、

雨をしのぐ小屋さえ

与えようとしなかった。

夜は寒く、

彼は空腹で、

疲れ、

着るものも充分になく、

震えていた。

彼は、町はずれの木の下に坐っていた。

彼の弟子たちは悲しみにうちひしがれ、

意気消沈し、怒りさえ覚えていて、

そこに坐っていた。

すると、

彼は祈り始めた。

神に向かって、

彼は言った。

「あなたは素晴らしい!

あなたは常に、何であれ、

私に必要なものを与えてくださる」

これはあんんまりだった。

弟子の一人が言った。

「ちょっと待ってください。

それではあまりにも言いすぎです。

とりわけ今夜は。

その言葉は偽りです。

私たちは空腹で、

疲れ、着るものが

ないないというのに、

冷たい夜のとばりが降りようと

しているのですよ。

そこらじゅうに、

野生の動物がいるのに

私たちは町から

拒絶されているのです。

私たちには小屋さえありません。

あなたは何に対して、神に感謝の念を

捧げているのですか?

<あなたは常に、何であれ、

私に必要なものを与えてくださる>

というのは、どういう意味ですか?」

神秘家は言った。

「そのとおりの意味だ。

私はもう一度、繰り返す。

神は、

何であれ、

必要なものは与えてくださる。

今夜、私には貧しさが必要なのだ。

今夜、私には拒絶されることが必要なのだ。

今夜、私には空腹になることが、

危険にさらされることが必要なのだ。

さもなければ、

なぜ神が私に

それを与えなければならない?

それは欠かすことができない

ものに違いない。

それは必要とされている。

そして、

私は感謝しなければならない。

神は本当に素晴らしく、

私に必要なものの

面倒を見てくださる。

神は実に素晴らしい!」

これが、状況にかかわらない態度だ。

状況は関係ない。

祝いなさい,

どんな場合であろうとも。

もし悲しかったら、

あなたは悲しいのだから、

祝いなさい。

試してごらん。

ちょっと試して、あなたは驚くだろう

それは起こる。

あなたは悲しいのかね?

踊りだしなさい。

なぜなら、

悲しみはとても美しいからだ。

存在の、

何とも、

静寂の花だからだ。

踊り、

楽しみなさい。

すると突然、

あなたは悲しみが

消えていくのを感じるだろう。

ある距離が生まれている。

やがて、

あなたは悲しみを忘れ、

祝っていることだろう。

あなたは、

そのエネルギーを

変容させたのだ。

これが錬金術の何たるかだ。

卑金属をより質の高い

金属に変えることだ。

悲しみ、

怒り、

嫉妬…

こうした卑金属は金に

変容されうる。

Osho「生・愛・笑い」より「悲しみを祝う」

posted by TARA at 23:59| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月18日

OSHOの講話 44


毎日自分自身への気づきのために

OSHO禅タロットを1枚引いています。


今日の1枚は

「罪悪感」



C8.jpg


このカード

いろんな思いにとらわれ

自分に取り込みすぎ

行き詰ってて

ヒステリックで・・・

という中央の女性にくぎ付けになるのですが

グレーにうずまく雲の上には

小花が咲き乱れた、

薄桃色まじりの空があります。


できることなら現れてほしくないな~

と、人情としては感じるカードの1枚


見た瞬間は

「お、意外だな?」

と。


雲の上のように晴れてるのか


または


囚われに慣れすぎて鈍いのか

深いところにあるものが

浮かび上がってくるのか


どっちかな~とね。


今日どのような出会い、

どのような気づきへと

つながるのかな、と軽めにうけとっております。


今日現れたOSHOの講話も

エールのようにシンクロしているので

ここにシェアします。

ーーー

唯一の問題は

いかにして心配をやめ、

いかにして生き始めるかだ。

生きる人になって、

物事をただなるままに

任せなさい。

受け容れなさい。

心配するあなたは何者か。

あなたは生まれたのだ。

生まれたいかどうかなど、

誰にも聞かれはしなかった。

そうでなければ、

あなたはそこで行き詰っていただろう。

あなたには何一つ決定など

できないからだ。

あなたは煮え切らない。

もしあなたが訊かれていたら、

もし質問する神がそこにいたら、

あなたは生まれるべきか否かを

永久に決められずに

いたことだろう。

だが神はもしあなたが

訊かれていたら、

もし質問する神がそこにいたら、

あなたは生まれるべきか否かを

永久に決められずに

いたことだろう。

だが神は決して

そんな間違いを犯さなかった。

あなたはそこで

行き詰まるに違いない

ことを知っていたからだ。

神は許可など求めずに、

あなたを突然

この世に投げ込んだ。

でなければ、あなたは

ここにいなかったはずだ。

そして、もし

神が死について尋ねれば、

あなたはやっぱり

行き詰まるだろう。

神は決して尋ねたりはしない。

神はただ、

あなたを連れ去るだけだ。

神はあなたのことをよく知っている。

あなたには決められない。

神がやって来て、

「お前はいつ死にたいかね」と

訊いたら、

あなたに決められるだろうか。

土曜日の朝か、それとも

日曜日――駄目だ。

たった七日しかないのに、

それでもあなたには決められない。

それは、

あなたに訊いたりせずに、

やって来なければならない。

生が起こる時、

あなたはいない。

誕生も、

死も、

愛も、

あなたなしに

起こる。

だったら、

何を心配する必要があるか。

源が

誰であろうと

――もしその者に、

あなたに誕生を与え、

死を与えることができるのなら、

創造し破壊することができるなら――


だったら、すべての心配はその者に

させたらいい。

あなたは自分がいる間、

楽しめばいい。

そして、

自分のいる間、

楽しむことができるなら、

突然、

これこそが、


源なのだ、と分かるだろう。


あなたは

「永遠の生」に触れたのだ。

イエスは

「私がここにいるのは、

 あなたたちに有り余る生を

 無限に豊かな生を教えるためだ」

と言う。

そして、

その道とは

成るに任せることだ。

出しゃばってはいけない。

自分の道を

邪魔してはいけない。

あなたの道、

タオに流れさせなさい。

どこであれ、

自分の本性の

導くままに

任せるのだ。

KIMG7200.JPG
*仲冬十六夜のお月様

posted by TARA at 13:52| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月24日

OSHOの講話 43

雨が続いて寒さがすこしずつ本格的になっています。

昨日は勤労感謝の日で大嘗祭。

このころの早朝の道はうっすら凍ってたりすることもある時期に。


我が家から車で30分くらい登ったところ

小田深山スキー場には雪が舞ってて、

今朝の風景はこんなだったそう。

1124スキー場の風景.jpg

日中の温度が上がらないはず。

冬は、雪で外出不可になることもある処に住んでいます。


いつでも・好きなところに・好きなように

好きな方法でできたらストレスフリーですが、

本当の自由さとは

全く関係がないということを

今日FBのタイムラインに上がってきた講話が

伝えてくれました^人^





自由が生の目的地だ。

自由がなかったら、

生にはいっさいの意味がない。

だが、

この「自由」は、

いかなる政治的、

社会的、経済的な自由をも

意味するものではない。

この「自由」は、

時間からの自由、

マインドからの自由、

欲望からの自由をさしている。

マインドがなくなる瞬間、

あなたは宇宙とひとつになる。

宇宙そのものと同じだけ

広大になる。

あなたと真実との間にある

障壁はマインドだ。

この障壁ゆえにあなたは、

かつて一度も

光が差したことのない、

一度も喜びが浸透したことのない

独房に監禁されている。

あなたが惨めさのなかに

生きているのは、

人がそういった小さな、

狭苦しい空間に

生きるようには

できていないからだ。

あなたの存在は、

森羅万象の

まさに究極の源泉にまで

延び拡がりたい。

あなたの存在は

大洋のようになりたいと

思いこがれているのに、

あなたは

ただの水滴になっている。

どうして

幸福でいられるだろう?

どうして

至福に満ちることが

できるだろう?

人が惨めさのなかを

生きるのは、

かれが囚われの生を

生きているからだ。

ゴータマ・ブッダはいう、

タンハー、

すなわち欲望こそ

すべての惨めさの根本原因だ、

と。

なぜなら、

欲望はマインドを

生じさせるからだ。

欲望とは

未来をつくりだすこと、

自分を未来に投影し、

明日を持ち込むことだ。

明日を持ち込めば、

今日は消え失せる。

それは

どこにも見つからなくなる。

あなたの眼は、

明日によって

曇らされてしまう。

明日を持ち込むなら、

昨日の重荷すべてを

持ち歩かなければならない。

なぜなら、

明日は昨日から

滋養をあたえられつづけて

はじめて存在できるからだ。

どの欲望も過去から生まれ、

そのひとつ一つが

未来に投影される。

過去と未来、

それがあなたの

マインド全体を

つくりあげている。

マインドを分析し、

分類したら、

そこに見いだされるのは

ただふたつのもの、


過去と未来だ。

一かけらの現在すら、

原子には

どの現在も見つからない。

ところが、

この現在こそが

ただひとつの真実、

ただひとつの実存であり、

存在する唯一のダンスだ。

マインドが

すっかり止んだそのとき、

はじめて現在が見いだされる。

過去がもはや

あなたを圧倒せず、

未来がもはや

あなたを占有しないとき、

あなたが記憶と空想から

切り離されているとき、

その瞬間、

あなたはどこにいるだろう?

あなたははだれだろう?

その瞬間、

あなたはだれでもない。

そして、

あなたがだれでもないとき、

だれもあなたを

傷つけることが出来ない。

あなたが

痛手を負うことなど

ありえない。

というのも、

自我というのは

いつでも

傷つく態勢にあるからだ。

自我はみずから求めて

痛手を負おうとしている

といってよい。

自我は

痛手を通して存在する。

惨めさと苦痛があって

はじめて

存在することができる。

あなたが

だれでもなかったら、

苦悩はありえない。

不安などありうべくもない。

あなたがだれでもなかったら、

そこにはただ

大いなる静寂、静謐があり、

内には微かな騒音すらない。

過去は去り、

未来は消滅している。

騒音をつくりだす

なにがあるだろう?

聞こえてくる沈黙は

天上のもの、

聖なるものだ。

いまはじめてあなたは、

この無心の空間において、

果てしなくつづく

永遠の祝祭に気づく。

それこそまさに

森羅万象を形作っているものだ。

人間をのぞけば、

全存在が至福に満ちている。

ただ人間だけが

その外に落ちて、

道に迷っている。

それは人間しか起らない。

なぜなら、

人間には意識があるからだ。


Osho - Dhammapada

posted by TARA at 17:28| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする