2023年03月02日

OSHOの講話 66


一般に信じられているように、

欲望が不安を生みだすのではない―

不安が欲望を生み出すのだ。

人は「不安」そのものだ。


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先日、私はあなた方に言った。

動物には不安がない、と。


それは彼らが 何かになる(become)必要がないからだ―

彼らはある(are)。

イヌはイヌであり、

トラはトラであり、

それで全く問題ない!


トラはトラになろうとしていない。

トラはある!

トラはすでにある!

いっさい何かになる必要はない。


動物の世界には不安というものがない。

ブッダの世界にも不安というものがない。


彼らは到着しており、なっているからだ。

彼らはシッダ、存在(being)だ。

もはや目標とするものはなく、動きはない。

旅は完結した。

彼らは<わが家>に到着している…。


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この二つの間に人間がいる―

彼は半分は動物、半分はブッダだ。


まさにそこに不安がある。

不安とはこの緊張だ。


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あなたの一部は

動物に戻りたがっている。

それはあなたをいつも引き戻そうとする。

それは言う。

「戻っておいで! 

 あんなにすばらしかったじゃないか―

 どこへ行くつもりだい?」


もう一方の部分は

未来へ希望を抱き続ける。

何らかの間接的な形で、

あなたはブッダになることが

自分の天命であることを熟知している。


種子はある!

そして、種子はあなたに言ってやまない。

「土を、正しい土壌を見つけ出せば、

 おまえはブッダになるだろう。

 戻ってはいけない!前に進め…」


この綱引きが「不安」だ。

「不安」は理解されるべき

最も重要な言葉のひとつだ。

なぜなら、

それは単なる言葉にとどまらないからだ。

それは、まさに人が置かれている状況だ。

これが人間のディレンマだ―

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生きるべきか、死ぬべきか?

これであるべきか、あれであるべきか?

どこへ行ったらいいのか?


人は十字路で立ち止まっており、

すべての可能性が開かれている。

だが、一つの可能性を選んだら、

ほかのすべての可能性を捨てなければならない―

そこに恐れがある。

間違った選択をしたかもしれない。

右に行けば―

誰にわかるだろう?―

左に行く方が正しかったかもしれない…。

これが「不安」だ。


どこへ行ったらいいのか?

何をしたらいいのか?

何をやるにしても、不安がなくなることはない。

動物になってしまえば、

ブッダの部分がそれに反逆しようとする。

自分の動物の部分が喜ぶことをやってみれば、

ブッダの部分があなたの中に罪悪感をつくりだす…。

ひとつの部分に従えば、

もうひとつの部分が罪悪感を感じさせる。

その逆もしかり。

これが「不安」だ。


この不安はまさに実存的なものだ。

それに苦しむ者もいれば、苦しまない者もいる

ということはない―

それはない。

それは実存的だ。

誰もがその中に生み落とされている。

人類はその中に生れついている。

人間は不安の中に生れついている。

それが人間に与えられた課題だ。

それは彼がとかねばならない問題、

彼が越えなければならない問題だ。


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さて、それを超越する方法は二つある。

ひとつは世間的な方法で、

それを「欲望」と呼んでもいい。

欲望はこの不安を隠すやり方だ。

あなたは狂ったように金を稼ぐことに奔走する。

金もうけに夢中になり、

実存的な不安のことはすっかり忘れてしまう。

そうなれば真の問題について

考える時間も、手がかりもなくなってしまう。

あなたは

すべてを脇におしやって、金、

さらなる金の追求にのめり込む。

そして

金を得れば得るほど、

さらに大きな欲望が起こってくる。

この金や政治権力を求める欲望は、

不安を隠すための覆いにほかならない…。

欲望は不安を避けるやり方だが、

ただ避けることしかできない。

避けることで、それを打ち壊すことはできない。

欲望は人に小さな不安を与えるが、

いいかな、

それはごく小さな不安であって、

実存的なものではない。

もちろん、金を稼いでいる時も、

あなたはいくつかの不安はあるだろう―

取引のことや株式市場のこと、

あれやこれやのこと、それから価格。

多くの金を注ぎ込んだが、

それでもうけることができるか、

それとも損するか?

こういった小さな不安がある。

それはほんとうの不安とは

比べものにならない。

それはほんものを避けるためのトリックだ。

欲望は不安の隠蔽だ。

それはトリックであり、策略だ。

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そして、

想とは、その覆いをはがすことだ…。

真の瞑想はテクニックではない。

真の瞑想は単にくつろいで、

静かに坐り、

あるがままにものごとを起らせることだ。

すべての不安が浮上して、

表面化するのを許しなさい。

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そして、

それを見守り、見守り続ける。

それを変えることは何もしない。


目撃が真の瞑想だ。

その目撃の中で、

あなたの仏性は

さらにもっと力強いものになる。


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目撃は仏性の滋養だ。

そして、

仏性が力強くなればなるほど、

不安はいっそう少なくなってゆく。

あなたの仏性が成就した日、

すべての不安は去っている。


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posted by TARA at 13:06| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月01日

OSHOの講話 65



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第三身体は、第二身体より大きい。

第二身体より繊細で、第二身体より高次だ。


動物たちには第二身体はあるが、

第三身体はない。

動物たちはとても生き生きとしている。

ライオンが歩くのを見てごらん。

何という美しさ、

何という優美さ、

何という威厳だろう。

人はいつでも嫉妬してきた。

鹿が走るのを見てごらん。

何という軽やかさ、

何というエネルギー、

何というすばらしいエネルギー現象だろう! 

人はいつも嫉妬してきた。

しかし

人間のエネルギーはさらに高次へと動いている。


第三身体は、

マノマヤ・コーシャ、メンタル体だ。

これは第二身体より、大きく、

もっと大きな空間を占める。

そしてもしあなたが、

これを成長させていなければ、

あなたはほとんど人間の可能性に過ぎず、

真の人間ではない。

マインドによって、あなたは人間になる。

だが、あなたはたいてい、それを持っていない。

それが在るべき場所にあるのは、

条件付けされたメカニズムに過ぎない。

あなたは、模倣によって生きている。

そうするとあなたにはマインドがない。

あなたが自分の力で、自発的に生き始める時、

自分の力で、自分の人生の問題に答え始める時、

あなたが責任を持った時、

あなたは マノマヤ・コーシャの中で成長し始める。

それからマインド体が成長する。


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もっともっと生き生きとして、

真正に、敏感になってごらん。

道に迷う可能性があるとしたら、道に迷うのだ。

なぜなら、誤りを犯すのをとても恐れていたら、

成長する道はないのだから。

誤りはよい。

間違いは犯さなければならない。

決して、同じ間違いを繰り返し犯さないように。

それでも決して、間違いを犯すのを恐れないように。

間違いを犯すのをとても恐れている人びとは、

成長しない。

彼らは自分の場所に座り続けて、怖くて動けない。

彼らは生きていない。


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マインドが成長するのは、

あなたが、自分の力で状況に直面し、

立ち向かう時だ。

あなたはそれを解決するために、

自分自身のエネルギーを動かす。

いつでも 助言を求めてはだめだ。

自分の人生の手綱を、自分自身の手で導くのだ。


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それこそが、私が

「自分のことをしなさい」と言う時に、

言いたいことだ。


あなたは困るだろうか? 

他の人たちに従う方が安全だ。

社会に従う、慣習、伝統、教典に従うのは都合がいい。

それはとても簡単だ。

誰もがそれらに従っているのだから。

あなたはただ、群集の死んだ一部にならなければならない。

あなたはただ、集団となった人びとと一緒に、

それがどこへ向かおうとも、動かなければならない。

あなたにはまったく責任がない。

しかし、

あなたのメンタル体、

あなたのマノマヤ・コーシャは

途方もなく苦しむ、

どうしてもそれは、成長しなくなる。


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あなたは自分自身のマインドを持てなくなる。

そして

あなたは逸してしまう。

とても、

とても美しいものを、

より高次への成長への掛け橋として

役わりを果たすものを。


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だから常に覚えておくように。


私があなたに語ったことは何でも、

あなたは、二つの方法で受け取れる。

あなたは単に、私の権威のもとで受け取れるだろうか? 

「Oshoはそう言った。それは真実のはずだ」

そうするとあなたは苦しむ。

そうするとあなたは決して成長しない。


私が語ったことは何であれ、それに耳を傾けてごらん、

それを理解しようとして、自分の人生でそれを実行し、

それがどんな風に作用するかを見つめてごらん。

そしてそれから自分自身の結論に達するのだ。


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その結論は同じになるかもしれないし、

そうではないかもしれない。

それがまったく同じになり得ることはない。

なぜならあなたには違う人格、

ユニークな本性があるのだから。

私が語っていることは何であれ、

私自身のものだ。

それは、私の中に根づいている

深いやり方とつながっている。

あなたは似たような結論に達するかもしれないが、

それがまったく同じにはなり得ない。

だから、私の結論を無理やり、

あなたの結論にすべきではない。

あなたは私を理解しようとすべきだ、

学ぼうとすべきだ。

それでも

私から知識を集めるべきではない。

私から結論を集めるべきではない。

そうすればあなたのマインド体は成長する。

いったんあなたがマインド体を超えると、

初めて気づく、

あなたがマインドではなく

観照であることを。


マインドの下では、

あなたはそれに自己同一化したままだ。

いったん、思考、精神的なイメージや観念が物体にすぎない、

自分の意識の中を漂う雲にすぎないとわかれば、

あなたはそれらと分かたれる。

即座に、だ。

あなたは身体を超えた……


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もはやどんな身体にも閉じ込められていない人、

自分が、粗雑な身体であれ、

繊細な身体であれ、

身体ではないと知った人、

自分は無限で、境界がないと知った人。


マハーヴィデハとは、

自分には境界がないと感じるようになった人を

意味している。

すべての境界とは、

閉じ込められた状態、

監禁された状態だ。


そしてその人はそれを打ち破り、落とすことができる、

そして無限の空とひとつになれる。


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Osho - Yoga:The Alpha & Omega


posted by TARA at 12:47| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月24日

OSHOの講話 64



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言葉とは何だろうか


現在に至るまで私たちが

特定の意味を与えてきた音の集まりだ

意味とは恣意的なものだ

だから同じ言葉が

ある言語では一つのことを意味し、

別の言語では別のことを意味し、

さらに別の言語では何かもっと

違ったことを意味することもありうる

言葉にはそれ自体として

少しも意味はなく、

意味を前提条件としている

だから

「初めに言葉があった」

という主張は言葉の力をわきまえた

重要な主張ではあるけれど、

事実に関しては本当ではない


ヒンドゥー教の経典は一つではなく、

百八のウパニシャッドは…

言葉ではなく、音で始まる

それらはオームで始まる

それは言葉ではない

それは何も意味しておらず

何の意味を持たないからだ

この方がより良い深い洞察だ

「初め」には言葉ではなく、

音しかありえない

音は誰か、

それに意味を与える人がいるというとき、

言葉になることができる

しかし仏教の経典には、

物事のまさに根源にまで到達したものがある

曰く「はじめに沈黙があった」と

沈黙と音と言葉は、

全て関連がある

沈黙は太陽のように広大だ

それは音になる可能性がある

それは未だ自己を明示していない

ちょうどそれは、

ギターの弦の中に眠っている

音楽のようなものだ

音を目覚めさせるには、

誰かの指が必要だろう

沈黙とは音が眠っていることだ

だが初めには沈黙しかありえない

言葉から音、そして沈黙へ、と

洞察は深まっていく

しかし私はどの主張にも同意しない

なぜならどのような始まりであれ、

かつて在ったことはないからだ

始まりという考え方そのものが

間違っている

もし私が書いていたとしたら、

こう書いただろう

「終わりに言葉があった

次に音が、その次に沈黙が…

もし終わりというものが、あるとしたら」

もちろん初めなどなく…

どんな終わりもありようもない

しかし個人の思想家たちや

個人の光明を得た人々にとっては、

他者との関係という限りでは、

始めもあれば終わりもある

光明を得た人自身にとっては

初めだけで終わりはない

そして初めには沈黙だ

おそらくウパニシャッドは

光明の経験にあまりにも感化されすぎているようだ

あなたのマインドが消え、

永遠の沈黙という空間を後に残すとき、

始まりはある

だが自己というものには終わりはない

もちろん他人から見れば 

あなたは死ぬだろう

が、

あなた自身から見れば

あなたは生きる

死とは 

あなたについての、

他者の評価なのだ

彼らにとっては、

終わりに言葉があるだろう

なぜならマスターの教えは、

一つあるいはそれ以上の言葉の中に

盛り込まされせるものだからだ

だから、言葉に影響力がないと思ってはならない

普通の日常の言葉には影響力がなく、

実用性があるだけだ

しかし光明を得た人が語るとき、

言葉は実用性を持たず、

ただあなたの心を変容させる

途方もない威力を持つ


「言葉を広めなさい」と言うとき、

私が意図しているのは

何であれ私があなた方に語ってきたことを

できるだけ多くの方法で広め続けなさい

ということだ

すべてのニュースメディアを利用し、

科学技術の提供できるものをすべてを利用して、

言葉が地球の隅々まで

くまなく届くようにしなさい

そして覚えておいてほしいのは

それはどんな核兵器よりも

はるかに威力があるということだ

なぜなら

核兵器は死をもたらすだけだが…

それは力とはいえない

しかし光明を得た意識からの言葉は

あなたに、

新しい生を

再生を、

復活をもたらせる…

これこそ力だ

何かを壊すとしたら、

どんな愚か者にもできる

創造には知性が必要だ

私はあなた方のために

計り知れない可能性のある言葉を残すつもりだ

もしそれらの言葉は

ただ囁き続けられたら、

あなたは驚くだろうが

人間のハートのすべてを変えることができる

もしその言葉が

覚醒した意識から発せられたなら、

あなたの内面に達すると

それは音になる

なぜなら意味は

マインドのものだから

マインドより深いものが

意味を持たないただの音だ

しかしまだそれ以上の深みがあり

そこでは

音が沈黙の中に消えていく

真の言葉、

本物の言葉は

あなたの内にいつも沈黙を創り出す

これがその力の判断基準だ…


つまりそれは空虚ではないこと、

それは音を含み、

音は沈黙を含んでいる、

そして沈黙こそ

存在の本質なのだ


あなたは質問してる

「ただ言葉を広めるだけで充分でしょうか?」と


何をお望みかね?

爆弾を作るかね?

テロリストになるかね?

人々を殺すかね?

他に何が欲しいのだろう

いや他に何もない

覚醒した人々は

各時代を通じて言葉以上に

影響力のあるものは見出さなかった

ただそれを広めるということが

問題なのだ

しかもそれを

オウムのように広めるのではなく、

レコードのように広めるのではなく、

その身代わりとして広めるのだ

なんであれその語ることについては

あなたはそれを体現しなくてはならない

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そうして初めてあなたの発言は力を持つのだ


だから心配することはない

この二十五世紀の間に世界中に何人の皇帝が

存在したのだろうか?

だが、どの名前にせよ

ゴータマ・ブッダの足元にも及ばない

ただその一つの名前だけが

エベレストのようにそびえ立つ…

そのそばでは、すべてがピグミーのようだ


しかもその人の能力とは何だったのか?

彼はある単純な方法を使った以外は、

つまり彼の沈黙の音に、

そして言葉に変換する以外のことは何もしていない

これか覚醒した人の内面で起こっていることだ

彼は沈黙の中にある

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彼は沈黙の持つ可能性を現実のものにし、

それは音になる

彼はそれに意味を与える…

なぜなら意味だけが、架け橋となれるからだ

あなたは言葉を聴く、

あなたの内でもまた再び同じ過程が

起こらなくてはならない

あなたはマインドによって

意味を理解する

しかし音を深部に滑り込ませる

意味はマインドにとどまる

音はハートに達する


そしてもし音も同様に

消えるのを許すなら、

そのときは

あなたは自らの存在、

すなわち沈黙に到達する


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マスターの場合に起こったことが、

逆の順序で

なされなくてはならない


それは暗号の言葉だ…

あなたは解読しなくてはならない


しかもそれは、

ただ私の言うことを繰り返すという問題ではなく、

それを「生きる」という問題だ

あなたの生活がその証となるべきで、

そうすれば他に何も必要はない

人類の進化は全て

言葉によって生じてきた

個々のマスター達は世の中に、

深い意味のある言葉を残す

それはしかるべき人のもとにあるなら、

変容のための偉大なエネルギーであり続けられる

私たちがここにいるのは

誰かを殺すためでもなければ、

何かを壊すためでもない

何かを創り出すためにここにいる

そして最も本質的で、

最も重要なのは人間の意識だ


そうだ、意識の生じるとき、

多くのことはひとりでに消えていくだろう


それらを壊す必要はないだろう

これがワーク全体の

素晴らしいところだ


壊されたものは何もないのに

何千もの問題が消えていく

そして最後にたった一つ残されるのは…

永遠の経験だ

あなたでさえ、その中に消えてゆく


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しかしそれを「経験」と

呼ぶことさえ正しくない

それはただ「在る」だけだ


私が説いているのは

存在に関する革命だ



Osho - 神秘家の道
posted by TARA at 12:24| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする