2017年05月10日

OSHOの講話31

タロットに聴いて心晴れるや♪
旅するOSHO禅タロット読み人TARAです。

先日朝起きてPCのスイッチを入れたら、
windows7の選択ができず

どうやら、勝手に10に更新されてたー!!

(なにかやらかしたのかもだけど)

そしてデータがすべてクリアーに!!TOT

最近PC不調続いてたのでTARAも切れた(たぶん)。

だんなさんが何でも復旧する専門家の方のところに

自主的に持って行ってくれて。

速攻、復旧されて帰ってきました◎

ありがたい。

この流れ、なんかやるべきことあるのねきっと。

しかし、復旧のプロ様は、

壁紙がOSHOなのでびっくりしたのじゃないかなーって。

PAP_0936.JPG

今日の講話です。

これ、怖いですYO。

TARA、いまここnow。

いつからだろ??

そう問うてしまえば

そうだった日々を数えだし

前前前世かもしれないくらいわからん。

小さい選択をして一歩でる

そしてリラックスしてすごした。。。

からだも節目

ウエサク満月に。

淡々と何かは満ちて

流れ出し、動き出す。

その一歩がつづくか見守ってる。

後退か

前進かどうかもわからない

余裕なとき気もとめないことでも。


ちょっと大げさだよ、

という頭の声に。

おおげさでもいいんだよー!

大丈夫だね。

ってハートからいってみる。


この講話は途中で切れてるっぽいけど

生にのって飛ぶしかないってことだ。


---

恐ろしいということはどういうことだろう。

人が恐れている時、内側には

どんな状況があるのか。

そうなって欲しいのに、

またそうなって欲しくもない。

これが恐れに満ちたマインドの状況だ。

彼は行きたい。

そして、また恐ろしくて行きたくない。

そうしたいのだが、確信はない。

決断できない。


イエスは、常に「恐れ」という言葉を使った。

信と対立させて何度も使った。

信に対立する言葉として、

「不信」とか「疑惑」という言葉を

使わなかった。

イエスは、信に対立させて、

いつも「恐れ」という言葉を使った。

イエスは、

恐れることのない者は、

信に到ると言った。


信とは決意、

信とは決断、

全面的な決断のことだからだ。


人は全面的に

その中に入っていく。

それは背後にどんな保留も残さない、

無条件の信頼だ。

それが、

撤回されることはあり得ない。

全身全霊で動いたならば、

誰がそれを撤回しえよう。


信とは、

絶対的なものだ。

入ったら、入ったのだ。

そこから出て来ることはあり得ない。

それは奈落への跳躍だ。

だから、恐れを信の反対語とした

イエスはまさに正しい。

それまでそういった者は

誰もいなかったが、

イエスは全く正しい。


彼は外側の言語に

かかわっているのは、

内なる実存の言語だ。

人が信に入っていくのを

許さないのは恐れだ。

それは不信ではない。

いいかね、

人が信に入っていくのを邪魔するのは

不信ではない、恐れだ。


無論、人は自分の不信、

自分の恐れを正当化する。

「私は懐疑的だ。私は疑っている。

全面的に確信していないのに、

どうして入っていける」

と言葉で言い繕う。

だが自分の内側を深くのぞき込んでみれば、

そこに恐れを見出だすはずだ。


恐れとは、

自分の半分は行きたいのに、

あとの半分は行きたくないということだ。

半身は未知なるものに

そそのかされている。

その呼び声を、

その招詞を聞いたのだ。

そして、半身は、

未知なるものを恐れ、

既知に執着する。

なんと言っても、

既知は既知だ。

そこに恐れはないからだ。


何かをすれば、

その何かは既知のものになる。

今、

あなたが新しい仕事、

新しい生活形態、

新しい習慣、

新しいスタイルに

入って行きたいとする。

と、あなたの半身は

今までのものに執着する。

それは言う。

「動くな。今より悪くなるかも

知れないじゃないか。

それに、一度行ってしまったら、

戻って来ることはできないんだぞ」と。

つまり半身は

「執着せよ」と言う。

この半身は

過去に属している。

過去とは、

既知なるもの、

記憶だ。

そして、もう一方の半身は、

常に興奮している。

未知なるものへの、

海図のない航海への呼び声を

感じている。

新しいものに対しては

人は夢中になるものだからだ。

これが恐れだ。

人は二つに分断される。

恐れが人を分断する。

そして、

分断されたら、

そこにあるのが不決断だ。

一歩を未知なるものへ

踏み出したのに、

もう一歩は過去に

過去の墓穴の中に残したままだ。

そこで人は行き詰まる。

誰も片足では動けない。

誰も片方の足では、

一本足では動けない。

二つの翼を使わなければならない。

両方をそこに

持ち込まなければならない。

そうやって、初めて人は

動くことができる。

不決断であれば、行き詰まる。

そして、誰もが行き詰まっている。

それが問題だ。

それこそが不安だ。

人は行き詰まり、

動くことができない。

「生」は流れ続けている。

ところが、

あなたは岩のように

こり固まって、

行き詰まっている。

過去の虜になっている。


OSHO



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2017年04月17日

OSHOの講話30

タロットに聴いて心晴れるや♪
旅するOSHO禅タロット読み人TARAです。

土用入りした今日は、雨、風が激しい

台風の様な天気でした。

こんな日に、この春最初で最後のお花見いきました笑

日々、花々の写真を撮っても

数日したら様子が変わってしまうので

今はもうちがっているとおもいます

季節が移っていくのねーの1枚

PAP_0670.JPG

桜とフジのつぼみ

こちらのフジはご近所でもすばらしい見所♪

初夏に向かってることを観じます


今日は、閉じたときのTARAに届いた

OSHOの講話です。

---

師の慈しみは限りない。


彼はあなたがたの


眠りが深いことを


よく知っているので、


何度もくり返し


要点を明確にする。



最初は


聞き逃したかもしれないので、


師はもう一度くり返す。


二度目も


聞き逃したかもしれないので、


師はもう一度くり返す。



仏陀は光明を得たあと


42年間を生きたが、


朝も夕も、


昼も夜も、


42年間、


同じことを言っていた。


絶えず同じことを


くり返し言っていた。



なぜなら、


あなたが


いつそれを理解するか


誰にもわからないからだ。


いつあなたが


受容的になるか


誰にもわからない。


いつあなたのハートに


小さな窓が開いて、


客が入って来ることが


できるようになり、


一条の光が


あなたを貫くか


誰にもわからない。



二十四時間、


あなたはいつも


同じままでいるわけではない。



ときには


ひじょうに頑なになって、


入り込むのが


とてもむずかしいこともある。


ときには


耳がすっかり遠くなって、


声が耳に届いていても、


聞こえないかもしれない。


だが、


ときには


もう少しこころを開いて、


もっと感じやすくなり、


もっと愛情深くなり、


もっとしっかり


聴くことができ、


あまり理屈っぽく


なくなっているときもある。



柔和で、


女性的に


なっているときもあれば、


強情で、


男性的に


なっているときもある。



それは周期的に変わってゆく。



それを見守ったら、


じきにあなたは


理解力が


高まる瞬間や、


理解力が


低下する瞬間があることに


気づくようになる。



あなたは24時間、


同じままでいるわけではない。


あなたは絶えず変化し、


流動している。



師が


話しつづけなければならないのは


そのためだ。



いつがあなたにとって


ふさわしい瞬間なのかは


誰にもわからないから、


師はどこまでも


くり返してゆく。



正しい瞬間がやって来れば、


必ず変容が起こる。



一瞬でも


ハートを射ることができれば、


あなたはそれからは


まったくの別人になる。



もう二度と


同じ人間にはもどらない。



Osho - The Secrets Of Secrets



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2017年04月03日

OSHOの講話29

タロットに聴いて心晴れるや♪
旅するOSHO禅タロット読み人TARAです。

今日はマヤの叡智の暦 ツオルキンでは

【 KIN210 白い月の犬の日 】でした

*気になる方へ♪

 ちなみにこんな日→ KIN210


今あがってきたOSHOの講話が愛だったので

(かなりの割合で愛テーマだけど❤️)

ここにシェアします

ーーー

私の合い言葉は、愛だ。



だから、私は言う。



わが最愛の人たち・・


私は、あなた方を、愛している。


私は、あなた方に、全世界を、愛で、満たして欲しい。



それを、私達の、宗教にしよう。



キリスト教ではなく、ヒンドゥー教ではなく、


イスラム教ではなく、ジャイナ教ではなく、仏教ではなく・・ 


愛だ。



どんな形容もつかない、純粋な愛だ。



キリスト教的な、愛ではない。



一体、どうして愛が、キリスト教的になれる?


それは、あまりにも、馬鹿げている。



一体、どうして愛が、ヒンドゥー教的になれる?


それは、おかしい。 



愛は、ただ愛だ。



愛においては、あなたは、


キリストにも、ブッダにもなれる。



だが、仏教的な愛とか、キリスト教的な愛、


というものは、ない。



愛においては、「あなた」は、消える。



あなたの心は、消える。



愛の中では、完全に寛ぎ、安らぎの境地に、至る。



それが、私の教えだ。 



私は、愛を教える。



愛、以上に、高いものは、何もない。



OSHO:「坐禅和讃・白隠禅師を語る」(めるくまーる社)



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