2020年02月12日

OSHOの講話 34

とてもとても痛い講話です。。。

独りあれるかどうかを試されてる



ーーー


愛が執着となるのはそこに愛がないからだ。

そこにあるのはただの遊戯、

ただの自己欺瞞だ。

執着の方が本当で、愛はただの前戯だった。

だからあなたは恋に落ちるたび

遅かれ早かれ自分が

道具になっていることに気づく。

そして悲劇の全てが始まる。

その仕組みは何か。

なぜそういうことになるのか。


数日前のことだが、

ある男が私の所へやってきた。

彼は大きなとがめを感じていた。

彼は言った、

「私はある女性を愛していました。

すごく愛していました。

彼女の死んだ日、

私はひどく泣き悲しみました。

ところが突然、

自分の中にある種の自由を

感じました。

まるで重荷がなくなったかのような…。

私はほっと息をつきました。

まるで自分が自由になったかのように」


その時、

彼は自分の感情の

第2の層に気づいたのだ。

外側では泣き哀しみ、口では

「彼女なしでは生きていけない。

もうおしまいだ。

もう死んだも同然だ」と言いながら、

深いところでは

「なんだかずいぶん気持ちが軽い…

自由になったような気がする」

と言っていた。


第三の層は、

後ろめたさを感じ始めていた。

その層は言う、

「一体自分は何をしているんだろう」

彼によると遺体は自分の

すぐ前に横たわっていた。

そして彼は大きな咎めを感じた。

彼は言った、

「どうしたらいいだろう。

私の心に何が起こったのだろう。

私はこんなにも早々にも

裏切ってしまったのだろうか」


別に何も起こっていない。

別に裏切りではない。

愛というものは執着になると、

重荷なり、

束縛になる。

だがなぜ愛が執着となるのか。

最初に理解すべき点はここだ。

もし愛が執着となったら、

その愛は単なる幻想となる。

あなたは単に自分自身と戯れ、

「これは愛だ」

と考えているだけだ。


だが実際のところ、

あなたが必要としていたのは

執着だ。

そしてもっと深く

見てみればわかるだろうが、

あなたはまた奴隷にも

なりたがっていた。

そこには自由に対する

微妙な恐怖がある。

誰もが奴隷に

なりたいと思っている。

もちろん誰もが自由を語る。

だか、

本当に自由になろうという

勇気を持ち合わせている人間は

誰もいない。

本当に自由になると、

あなたは「ひとり」だ。

「ひとり」になる勇気があって

初めてあなたは自由になれる。


だが誰もひとりに

なる勇気がない。

皆誰かを必要としている。

なぜ誰かを必要とするのか。

あなたは孤独を恐れている。

あなたは自分自身に

飽き飽きしている。

だから孤独になると

全てが無意味に

思われてくる。

ところが誰かと一緒にいると

あなたは忙しくなる。

そして自分でいろいろ

意味を作り出す。

あなたは

自分自身のために

生きられない。

だから他の誰かのために

生き始める。

そしてその

「他の誰か」も

また同じだ。

彼あるいは彼女も

ひとりでは生きられない。

それであり誰かを探している。 

互いに孤独を恐れる。

ふたりの人間同士が

一緒になり、

遊戯を始める…

愛の遊戯を。


だが

奥底で二人が

求めているのは

執着であり、

しがらみであり、

束縛だ。

だから遅かれ早かれ、

二人の望むことが起こる。


それはこの世で

最も大きな

不幸の一つだ。

あなたの望むことは

何であれ、

やがて起こる。

遅かれ早かれ、

あなたは

きっとそれを得る。

そして前戯は消え失せる…

役目が終了すると

消え失せる。

夫婦になって

互いの奴隷になる時、

結婚が起こる時、

それは消え失せる。

愛はただの幻想だった。

単にその中で二人の人間が

互いの奴隷になっていたと

いうだけの話だ。

面と向かって、

隷属を頼みにいくわけには

いかない。

それではあまりに侮辱的だ。

他人に向かって、

「私の奴隷になれ」

と言うわけには

いかない。

それでは反発を食らう。

また

「あなたの奴隷になりたい」

というわけにもいかない。

だからこんな風に言う、

「あなたなしでは

生きられない」

だがその意味は同じだ。

そしてこの真の欲求が

成就されると、

愛は消え失せる。

するとあなたは

束縛や隷属を感じる。

それで自由になろうと

もがきだす。

だいたいこれは

心の逆説、パラドックスだ。

自分の持っているものに、

飽きてしまい、

持っていないものを

欲しがる。

だから一人でいると

隷属や束縛を欲しがる。

だが、

束縛されていると

自由を欲しがる。


実際、

自由に憧れるのは、

奴隷だけであり、

自由人は

再び奴隷になろうとする。


心は振り子のようなもので

極端から極端へと

動き続ける。


Osho

posted by TARA at 01:55| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月06日

OSHOの講話 33

ひさびさに、OSHOの講話のシェアを


【全面的に生きれば、生きるほど

それだけ生きる能力は高くなる】


愛すれば堕落する。

愛さなければ愛したいという

深い衝動を感じ続ける。

それは自然のそのものから

やってきている。

何ひとつ悪いことがない。

それは飢えや乾きと

同じように自然なものだ。

そして 飢えや乾きと

同じように美しいものだ。

だが、あなた方の聖者は

人をまさにプラスチック人間に…

飢えもなければ渇きもなく、

愛もない人間に…したい。

それでやっとあなたは完全なのだ。


人のメカニズムが

全てプラスチックでできていれば、

それは簡単だろう。

そして科学者はその線に沿って

考えている…

メカニズム全部を

プラスチックで作る事を。


そうなれば人には

どんな食料もいらない。

どんな愛もいらない。

人は何も必要としない。

人は機械になる。

ロボットだ。

時々どこか具合が悪くなれば

修理工場に送ればいい。

毎日燃料補給スタンドに

出かけて行って、

そこで石油か何か

入れてもらえれば

万事終了だ。

そうなれば、

人間は完全主義者だ。

それで完璧だ。


だが、

あるがままの「生」なると

これは微妙だ。

それはプラスチックではない。

それは極めて微妙なものだ。

人の中にあるのは電線ではない。

人が持っているのは神経だ。


そのバランスはいつも動いている。

何ひとつ確かなことはない。

あらゆるものが

他のものの中に

溶け込み、融合し続けている。


理解の人は悩まない。

不完全を苦にしない。

彼は完全という観点からは

全く考えない。

理解の人は、その瞬間を

可能な限り全体的に

可能な限り全面的に

生きるだけだ。


すると、

全面的に生きれば、生きるほど

それだけ生きる能力は高くなる。

一日が来る。

彼はそれをただ生きる。

どんな理想も押し付けず、

どんな観念も抱かず、

自分の「生」にどんな規則も

統制も設けず、

ただ生きる。


彼はただ生き、楽しみ、喜ぶだけだ。

この信を生きることが『不二』への道


そして、これこそが信だ…、

 『不二』こそ『信心』と

 同じものだからだ。

そして胸の内深く、

信頼する心があれば、

「不二」はあなたの

目の前にある。

内側深くに、

疑いがあれば、

そこに生まれるのは、

理論や思考や言葉や

哲学や教義だろう。

そして、

眼前のことには、

全く盲目になるだろう。

あなたは近くを見ることができず、

遠くを考えることしかできないだろう。


内なる信頼と外なる実在。


内なる信頼と外なる真理。


信頼と真理が出会う。


他の出会いはない。

「『不二』こそ『信心』と

 同じものだからだ」。


posted by TARA at 23:00| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月23日

OSHOの講話 32

タロットに聴いて心晴れるや♪
旅するOSHO禅タロット読み人TARAです。

平成最後の天皇誕生日は満月の日。

そんな冬至明けの朝は日もさして暖かかかったのですが

お昼ごろから雨が降り始めました。

寒さは厳しくないので助かる山暮らし。

昨日の今年最後のサロンdeコラボ、

どのシーンも素晴らしく、

ハプニングであり創造的な時間でした。

ブログに記録する前に

久々にOSHOの講話~

OSHOの講話は、

ほぼほぼFBタイムラインから

シェアしていますが

毎回毎回絶妙すぎるタイミングです。

痛いこと多しですが。

このブログを通して誰かに届くかもしれないので

ここにリレーとして復活してみます♪

存在から、あなたにとどけと・・・ 

ーーー

何百万の人々が、一生を子供のまま過ごす。


彼らは決して大人にならない。


彼らは年をとるが、決して精神的には成長しない。


彼らの心理は子供っぽくて、未熟だ。


彼らはいつも愛を必要としている。


彼らはそれを食べ物のように欲しがっている。


人は愛を必要とするのではなく、


愛しはじめたとき、初めて大人になる。


満ち溢れ、分かち合うようになる。


与えるようになる。


その力点は全面的に異なっている。


最初のものでは、力点は


いかにしてさらに多くを得るかになる。


第二のものでは、力点は


いかに与えるか、いかにさらに多くを与えるか、


いかにして無条件に与えるかにある。


これがあなたのもとに訪れる成長、成熟だ。


成熟した人は与える。


成熟した人だけがそれを持っているのだから、


成熟した人だけが与えることができる。


そうなれば、愛は依存にならない。


他人がいようといまいと


あなたは愛していることができる。


愛は関係ではない、それは状態だ。


恐れは、


死ゆえに起こってくるものではなく、


生きられなかった生ゆえに、


起こってくる。


そして死の恐怖ゆえに


老年もまた、恐れをもたらす。


なぜなら、


それは死の最初の一歩だからだ。


さもなければ、


老年もまた美しいものだ。


それはあなたの存在の実り、成長、成熟だ。


瞬間から瞬間へと、


生が与えてくれるすべてのチャレンジを生き、


生によって開かれるすべての機会を利用し、


生が呼び招く未知への冒険に乗り出したら、


老年は成熟になる ―


そうでなかったら、老年は不健全のものになる。


不幸なことに、


多くの人が単に年をとり、


それに見合った成熟を得ることなく


年老いてしまう。


そうなれば、老年は重荷になる。


あなたの肉体は年をとったが、


あなたの意識は子供っぽいままだ。


あなたの肉体は年をとったが、


あなたの内なる生は成熟していない・・・。


それを理解して、


勇気を出しなさい ―


自分の生を自ら手に取り戻しなさい。


突然、あなたは


エネルギーが上昇するのを目にする。


「私は他の誰でもなく、自分自身になる。


いかなる代価を払おうと、私は本当の自分になる」


と決意した瞬間、まさにその瞬間、


あなたは大いなる変化を見る。


活力が感じられる。


自分の中をエネルギーが流れ、


脈動しているのが感じられる。


それが起こらない限り、


あなたは老年を恐れる。


自分が時を浪費して、


生きることなく、老年が訪れ、


もはや生きられなくなるという事実から


どうして目を背けていられるだろう・・・。


生きなさい、全身を動かして、


それを深い愛と共に受け容れ、


自分の肉体とほとんど恋に落ちなさい。


それは神聖な贈り物であり、


神が住まうことを決めた寺院だ。


そうなればどこにも老年への恐れはない。


あなたは成熟するようになる。


あなたの経験があなたを成熟させる。


そうなれば老年は不健全なものではなく、


それは美しい現象になる。


人生がすべてその準備なのに、


どうしてそれが不健全なものでありえよう。


あなたは一生、


それに向かって進んでゆく。


それは頂点であり、


あなたが歌う最後の歌、


あなたが踊る最後のダンスだ。


成熟はあなたが


期待なしで生きはじめたときに起きる。


期待は幼稚なものだ。


期待を未来に投影しなくなったとき、


あなたは成熟する。


実のところ、いかなる未来もなくなったとき、


ただ瞬間を生きるようになったときに


あなたは成熟する ―


なぜなら、それが存在する唯一の現実だからだ。


すべての望みを落としなさいというとき、


私は未来の必要などなくなるほど、


強烈に在りなさい、と言っている。


そのときそこに、変化が、変容が起こる。


あなたにとって、時間の質そのものが変わる。

それは永遠のものになる。


あなたの実在である意識には


時空間の限界はない。


あなたの肉体は


子供から若者、


若者から老年、


老年から死へと育ってゆく。


― それらは家の中の家具の変化だ・・・


家を塗り替え、その様式を変えることだ。


だが、家の中に住んでいる人は 


― その主人は -


そういったすべてのことにも影響を受けない。

意識が主人であり、


あなたの肉体は家具に過ぎない。


瞑想はメンタルなものではない。


瞑想はあなたの存在と関わっている。


それに少しでも入り込めば・・・


あらゆるものが変わってしまう。


肉体は自らの道を進んでゆくが、


あなたは自分が肉体でないことを知っている。


人は死ぬものだが、


あなたは死などありえないことを知っている。


あなたにも死が訪れるが、


瞑想はあなたに死の準備をさせる ―


あなたが究極の沈黙の中へ、


踊りながら、


歌いながら,

形を後に残し、


形なきものの中へ、


消えてゆけるように。


OSHO





posted by TARA at 14:54| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする