2022年06月15日

OSHOの講話 49



WQ.jpg

愛とは希な開花だ。

愛は

ほんの時折にしか

起こらない。

何億もの人々が、

自分達は

恋人達だという

偽りの姿勢の中で生きている。

彼らは

自分達は愛し合っていると

信じている・・・

だが、それは

彼らの思い込みにすぎない。

愛とは希な開花・・

時折、それは起こる。

それが希なのは、

恐怖が無くなったときに

しか起こらないからだ。

それ以前には

決して起こらない。

愛は極めて深い内面的な

宗教的な人にしか

起こり得ない。

セックスは

誰にも可能なこと。

交友関係を持つことは

誰にも可能なこと。

だが、愛は違う。

あなたが

怖れていないとき、

そのときには

何ひとつ隠すものは無い。

そのときあなたは

自らを開くことができる。

そのときあなたは

あらゆる境界線を取り除き

あなたの内部に、

あなたの核にまで

浸透するよう

他者を招くことができる。

いいかね

もしあなたが、

自分の内部深くに浸透することを

誰かに許したら

相手もまたあなたが

彼の中に、

彼女の中に

入ってゆくことを許すだろう。

なぜなら、

あなたが他者を

自分の中に入ることを

許すときには

信頼が生まれるからだ。

あなたが怖れていないときには、

相手からもまた

恐怖は消えてゆく。

怖れることはない。

怖れを落として、

オープンでいてごらん。

他者の中心が

あなたの中心に出会うのを

許すがいい。

あなたはそれによって

再び生まれ変わる。

存在の新しい質が

創り出されるのだ。

存在のこの質は言う。

「神」は在ると。

「神」は論議では無く、

或る充足

充足を感じ取る

フィーリングのことだ。

あなた方も

観察したことがあるだろう。

不満を感じているときには

決まって

神を否定したくなる。

満足していないときには

あなたの存在全体が、

神などいない、

と言いたがる。

無神論というのは

論理から出てくるものではない。

それは不満から出てくるものだ。

あなたはそれに

理屈をつけるかもしれない。

それはまた別問題だ。

あなたは、

自分が不満だから

無神論者なのだとは言わないだろう。

あなたは、

神など存在しない、

私にはその証拠があるんだ、

というかもしれない。

しかし、

それは本当のことではない。

もしあなたが満足していたら、

突如としてあなたの存在が言い始める。

「神」はある!と・・・

不意にそう感じるのだ。

実在全体が神性になる・・

もし愛がそこにあったら、

あなたは生まれて初めて

実在は神性であり

あらゆるものは

その恵みであるという

実感をもつことだろう。

しかし、

これが起こるためには

多くのことが為される必要がある。

これが起こりうるためには、

多くが壊されなければならない。

あなたは、

自分の内部で

障害を生み出すようなもの全てを

壊していかなければならない。

愛をサダナ(修行)にしなさい。

とるに足らない

つまらぬものに

終わらせてはならない。

頭の中の考え事で

終わらせてはならない。

肉体的な満足感で

終わらせてはならない。

愛を内なる探求にしなさい。

そして、

相手を助けとし

友人としなさい。

もう少し説明しようかね。

もしあなたが人を愛したら、

少しずつ、

その人の外面の部分が消えてゆく。

その人のかたちが

消えてゆく・・

あなたは、

形のない内側のものに

もっともっと接するようになる。

形は次第に

ぼんやりとなり、

消えてゆく。

そして、

あなたがもっと深く

見入ったら

そのときには

この形のない個さえも

消え始め、溶け始める・・

と、

彼方なる世界が開かれる

そうなったら

相手のその個人は

単なる開口部、

扉だったことを知る。

愛する人を通じて、

あなたは神性を見出すのだ。


Osho - My Way : The Way Of The White Clouds

posted by TARA at 08:51| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月16日

OSHOの講話 48 【手放し】

W8.jpg

手放しとは、

もっとも美しい空間のひとつだ。

何をすることもなく、

静かに坐ってただ存在する。

すると草はひとりでに生える。

あなたはただ鳥の歌を、

樹々の緑を、

多次元のサイケデリックな

花の色を楽しむ。

存在を体験するには

何もする必要もない。

することをやめなければならない。

どんな緊張も、

どんな心配もない、

空っぽの状態に

いなければならない。

この静謐な状態の中で、

あなたは私たちを取り巻く

音楽とのある諧調の中に入る。

突然、太陽の美しさに気づく。

一度も日没を

楽しんだことのない人、

一度も日の出を楽しんだことの

ない人が無数にいる。

彼らにはその余裕がない。

彼らは絶えず働き、

生産し続けている。

― 自分のためではなく、

ずる賢い既得権益者たちのためだ。

権力の座にあり、

人類を操る能力を

持った者たちのためだ。

当然彼らは、

仕事は偉大なことだと

あなたたちに教える。

― それは彼らの利益にもなる。

そしてその条件づけが

あまりにも深くなってしまって、

あなたは自分が

なぜくつろぐことが

できないのかの理由すら

分からない。

瞑想のあらゆる技法とは、

あなたたちが手放しのアートを

思い出すのを手伝うための

方法に他ならない。

私が思い出すというのは、

あなたたちが既に

それを知っているからだ。

そして、あなたは今も

それを知っている。

ただその知識は、

社会によって抑圧されている。

単純な原理が

思い出されなければならない。

肉体が最初であるべきだ。

ベッドに横になって ―

そしてベッドには毎日横に

なっているものだから、

何も特別なことはいらない ―

ベッドに横たわったら、

眠りが来る前に、

目を閉じて、

自分の足から来るエネルギーを

見守り始めなさい。

どこかに何かの緊張があるかどうか。

足には、腿には、胃にはどうか?

そこに何かのこわばり、

何かの緊張はないか。

そしてもし緊張を見つけたら、

ただそれをくつろがせようと

するだけでいい。

そしてくつろぎが

来るのを感じない限り、

そのポイントを

動いてはいけない。

手を通って行きなさい。

― 手というのはあなたの

マインドだからだ。

手はあなたのマインドに

つながっている。

もし右手が緊張していたら

あなたの大脳の左側が

緊張することになる。

左手が緊張していたら、

あなたの大脳の右側が

緊張することになる。

だからまず手を通って行きなさい。

― それはほとんどあなたの

マインドの枝のようなものだ ―

そしてその後で、

最後にマインドに戻りなさい。

全身がくつろいだら、

マインドは既に90パーセント

くつろいでいる。

肉体はマインドの拡張に

他ならないからだ。

それからマインドの中にある

10パーセントの緊張だが・・・

ただそれを見守りなさい。

すると見守るだけで、

その雲は消えていく。

数日かかるだろう。

それはひとつのコツだ。

するとそれはあなたが

非常にくつろいでいた

子供の頃の体験をよみがえらせる。

ベッドから始めなさい、毎晩だ。

二、三日のうちに、

そのコツをつかめるだろう。

そして一旦その秘訣を知ったら、

― 誰もあなたにそれを

教えることはできない。

あなた自身の肉体の中で

あなたが探求しなければならない ―

そうしたら日中でも、

どんなときでも、

くつろぐことができる。

そして、

くつろぎのマスターであることは

この世で最も素晴らしい

体験のひとつだ。

これこそが霊性への

大いなる旅の始まりだ。

なぜなら完全に手放しになったら

その人はもはや

肉体ではないからだ。

これまで単純な事実、

何かの緊張、何かのこわばり、

何かの痛みがあるときにしか、

自分の肉体を

意識しないという事実に

気づいたことはないだろうか?

全身がくつろいだら、

それだけあなたは自分が

肉体であることを忘れる。

そしてまさにその肉体を

忘れることに中に、

肉体の中に隠されている

新しい現象の、

自分が霊的存在であることの

想起がある。

手放しとは、

自分が肉体ではない永遠の

不死なるものであることを

知るための方法だ。

この世の他の宗教など

何も必要ない。

単純な手放しのアートだけで

あらゆる人は宗教的人間に変わる。

宗教とは神を信じることではない。

宗教とはローマ法王を

信じることではない。

宗教はなんらかの

イデオロギー体系を

信じることではない。

宗教とは自分の中の永遠なるものを

知ることだ。

サティヤム、シヴァム、スンドラム ―

あなたの実存の

真なるもの、

神性なるもの、

あなたの美、

あなたの優雅さ、

あなたの輝きを知ることだ。

手放しのアートとは

非物質的なるものを、

計測できないものを、

自分の真の存在を、

体験することと同義語だ。

自分でも知らずに

手放している瞬間が

わずかだがある。

たとえば、本当に

笑っているときだ。

― 腹から笑っているとき、

単に頭で

笑っているのではなく、

腹の底から笑っているとき ―

人は知らずに

くつろいでおり、

手放しでいる。


Osho




posted by TARA at 11:19| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月08日

OSHOの講話47【真正】


真正であるとは、

自分自身に

誠実であるということだ。

それは実に危険な現象だ。

まれな人々にしかそれはできない。

だが、

それをやろうとした者は

必ず達成する。

彼らは

想像もできないほどの

美、

優雅さ、

充足を

達成する。

誰もが、欲求不満に

陥っているように見えるのは、

自らの内なる声に

耳を傾ける者が

一人もいないからだ。


第二のこと。

最初のことをやりとげて、

初めて第二のことが

可能になる…

決して仮面をつけてはいけない。

腹が立ったら、

怒りなさい。

それには危険を伴うが、

微笑んではいけない。

なぜならそれは真実では

なくなることだからだ。

だが、

あなた方は怒りがあっても、

微笑みなさいと

教えられてきた。

あなたの微笑みは

偽りのものに、

仮面になってしまう。

うむ?唇の体操以外の

何ものでもない。

ハートは怒りで、

毒で一杯なのに、

唇は微笑んでいる。

あなたは偽りの

現象になってしまう・・・。


真正さについて

第三目のこと。

常に現在に、

とどまりなさい…

なぜなら、

すべての虚偽は

過去か未来かの

いずれかから入り込むからだ。

過ぎたことは過ぎたことだ…

それを気にしてはいけない。

それを重荷にしてはいけない。

そうでないと、

それがじゃまになって、

現在に対して

誠実になることができない。

そして、

まだやって来てないものは

まだやって来ていない…

いたずらに未来のことを

気にしてはいけない。

そうでないと、

それは現在に入り込んで、

それを壊してしまうだろう。

現在に対して誠実でいなさい。

そうすれば真正に

なることができる。

<いまここ>に在ることが

真正であることだ。

過去もなければ、

未来もない。

この瞬間がすべて、

この瞬間が永遠

そのものだ。

B19.jpg


☆彡☆彡☆彡


講話の出典は不明です。



真正と言う言葉を普段使うことはありませんが、

ピュアでいて

自分軸のような内なる芯がそっとある

(激しさを感じさせない)

という人に出会った時

この言葉がぴったりだなぁと感激いたしました。


>それは実に危険な現象だ。

自分の状況の危険を顧みない

ということも、

きっとあったとおもいますが

そののち


起きてくる状況を

逃げることなく受け容れてきた


という

>まれな人々にしかそれはできない。


見え方や認識、感じ方などが

きっと違うのだろうな~と。


ふさわしい表現も見つかりませんが

OSHO禅タロットの

【無垢】

が一番にあってるように感じます。


今日はお釈迦様の誕生日。

KIMG8689.JPG
*蓮華さんたちも祝ってる


庭先に出れば

晩春のきりっとクリアな光あふれる中

初くまんばちちゃん

初蛇さんとも遭遇して。


叡智や慈悲も常に注がれているのだろうな~

感じられる身体があることにも

改めてありがたいな~と感じました。



posted by TARA at 11:03| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする