2024年11月26日

OSHOの講話 71


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人間は、まさに一種の神経症にかかっている。

これは豊かな可能性をはらんだ状況だ。

あなたは後退するか、

それともジャンプして先に進むか、

そのいずれかだ。

後退してはならない。

後退してしも、あなたが満足することはない。

成長のみが満足を与える――

退行が満足を与えることはけっしてない。

たとえあなたの子供時代がこの上もなく美しく見え、

あなたがふたたび子供になっても、

それはあなたを満足させはしない。

あなたは惨めになるだろう。

なぜなら、あなたは青年期を、

青年期の自由、青年期の冒険を知っているからだ。

かつて自分は子供だったという年寄りじみた意味で

ふたたび子供になったとしても、あなたは幸せにならない。

あなたは高められたのではなく、転落した感じがする。

人間は一種の神経症にかかっている。


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なぜなら、リアリティーへ向かう否定された通路は、

つねに狂気を生みだすからだ。

正常な人々を異常な状況に置くことで、

私たちは異常な行動を入手できる。

現代人は、クラッチやハンドル、

あるいは目的地なしでうなっているエンジンだ。

古い目的地はもはや的外れだ。

今や人間は、

かつて一度も知られたことのない、

まったく新しい何かを学ばなければならない。

今や人間は、

今ここを生きることを学ばなければならない。


そのとおり、

必要なのは方向感覚であり、

固定した目的地ではない。

必要なのは含蓄のある意義であり、

明確な意味ではない。


運命は必要ない――


必要なのは尊厳だ、

必要なのは自由だ。


人間は、自らの自由を探索し、

自分の力で決めなければならない。

与えられた意味はない、

ということを憶えておきなさい。

それが問題だ。

過去には、与えられた意味があって、

あなたは生の意味を教えられていた。


今では、あなたの生の意味とは何かを、

あなたに教える者はひとりもいない―――

あなたはそれを創造しなければならない。

人間は、初めて創造者になる瀬戸際にいる。

今まで、あなたがたは被造物だった。

今や、あなたがたは創造者になる。


こう宣言させて欲しい――

歴史は方向転換しようとしている!

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あなたがたは、新しい意識の入口にいる。

今まで、人間は被造物のように生きてきた――

神が創造者であり、人間は被造物だった。

神が決定者であり、人間は追従者だった。

今では状況が変わりつつある。

人間は、もはや被造物ではなく、

創造者だ。

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今や、

人間が自分自身の生の意味を決めなければならない

人間が、自らの創造力によって、

自分自身の生に意義を与えなければならない。

あなたはそれを語ることができない、

あなたはそれを乞い求めることができない、

あなたはそれを当てにすることができない。

あなたがそれを創造しなければならない。

そして、これは実にたいへんなことだ。

意味を創造するには、

大いなる知性が必要とされる。

意味を創造するには、

大いなる覚醒が必要とされる。

意味を創造するには、

大いなる努力が必要とされる。

だが、人々は物乞いという

単純な策略を身につけている。

誰か――

あなたの父親、あなたの母親が、

あなたに意味を与えてくれる。

あるいは、

天の偉大な父が、

あなたに意味を与えてくれる――

あなたはただ祈りさえすればいい、と。

日を増すごとに仏陀との関わりが大きくなる、

と私が何度も何度も言うのはそのためだ。

時が経つほど、

仏陀と人類の関わりはますます大きくなる。

仏陀の登場は二五世紀早かった。

今が彼にふさわしい時だ。

なぜなら、彼は自由を信じているからだ、

彼は個性を信じているからだ。


彼は、あなたがたが被造物だとは信じない。

彼は、あなたがたが

創造者だということを信じている。

自分自身を創造するがいい。

自分の存在に姿と形を与えなさい。

自分の生を描きなさい、

自分自身を刻みつけなさい。

あなたが何であろうと、

それはあなたの作品だ。

それは運命ではない…

責任はあなたにある。

人々は責任を負いなくない。

彼らは責任を恐れている。

彼らは、他の誰かに自分の面倒を見て欲しい。

彼らはつねに守護者を必要としている。

神経症にかかるのはそういった人々だ。

なぜなら、

もはや守護者は存在しないからだ。

実際、彼らは一度もそこにいなかった。

あなたが彼らの存在を信じていただけだ――

あなたが彼らの存在を信じたからこそ、

彼らはそこにいた。

今や、その信仰は消え、彼らは消え失せた。

彼らは、あなたの信仰によって創られていた。

人間は、

自分の力で独りで生きることを学ばなければならない。

これは大いなる機会だ――

それを否定的にとらえてはならない。

さもなければ、

あなたは精神病院に行くことになる。

それを肯定的にとらえなさい、

その挑戦を受け容れるのだ。

そうすれば、

あなたは地上に現われる初めての

真の人間になる。


posted by TARA at 10:19| OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月07日

OSHOの講話 70



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恐怖があったら怖がるがいい。

なぜ二元対立を作る?

恐怖に襲われたら恐れなさい。

恐怖の支配を許すのだ。

なぜいつも、

「どうしたらいいのか」ばかり聞くのか?

生が自分を乗っ取るのを

許すことはできないのかね?

愛にとりつかれたらどうする?

愛するがいい!

何も『しない』こと。

愛が自分を支配するのを許すのだ。

恐怖がやってきたら、

震えなさい。

大風の中の木の葉のように、

そしてそれはビューティフルだろう。

それが去ったとき、

あなたはこの上もなく

穏やかな静けさを感じるだろう。

大嵐が去ったあと、

何もかも穏やかに鎮まるように…

どうしていつもいつも

何かと戦うのか?

恐怖がやってくる…

自然なことだ。

全くもって自然なことだ。

恐怖のない人間など考えられない。

そんな人間は死んでいるも同然だ。

他の人が道で警笛を鳴らしても

恐怖のない人間は歩き続けるだろう。

知らんぷりだ。

行く手に蛇がいても、

恐怖のない人間は構うまい。

平気で歩き続けるだろう。

恐怖のない人間など全くの痴愚だ。

恐怖というのは

あなたの知性の一部なのだ。

何もおかしいところはない。

恐怖はそこに死があることを

示しているに過ぎない。

我々人間というのは

ほんの束の間ここにいるだけだ。

おののきは

我々が永遠にここにいるのでは

ないこと教えてくれる。

我々は永久にここにいるわけではない。

何日もしないうちに

あなたはいなくなってしまうだろう。

実際、恐怖のおかげで

人間は宗教を追い求めてきた。

恐怖がなかったら、

宗教など無意味だったろう。

宗教心のある動物はいない。

恐怖を持った動物がいないからだ。

死を意識できる動物がいない以上、

宗教心を持てる動物もいない。

人間は死を意識している。

一瞬一瞬、死はそこにある。

四方八方からあなたを

取り巻いている。

いつも何時にも、

あなたはいなくなってしまう。

それが身震いを起こさせる。

どうしてそれを怖がることがある?

震えるがいい!

ところがまたしても

エゴはこういう、

「だめだめ、お前が怖がるなんて…

いいや、これはお前らしくない。

こんなのは臆病者がやることだ。

お前は勇敢な人間だろう?」

恐怖は臆病者向けなんかではない。

恐怖を許しなさい。

ただひとつ理解されるべきことがある。

恐怖に許し、

震えおののく時は、

それを見守りなさい。

それを楽しみなさい。

その注視の中で

あなたは恐怖を超越するだろう。

あなたは体が震えるのを

目にするだろう。

マインドが震えるのを

目にするだろう。

しかしあなたは自分の中に一点、

それに左右されることのない

深い中心があるのに気付くだろう。

嵐は通り過ぎる。

しかしあなたの内のどこか

深いところには

触れられざる中心がある。

台風の目だ。

恐怖を許しなさい、

それと戦わないこと。

何が起こっているのかを

『見守る』がいい。

見守り続けてごらん。

見守るにつれて、

あなたの目には、

透視力が出てくる。

体は震えているだろう。

心は震えているだろう。

が、あなたの内の奥深くには

意識がある。

それは純然たる観照者、

ただ見守るだけだ。

それは水に浮かぶ蓮の花のように

何者にも触れられることがない。

それに達したときは初めて、

あなたは無畏に達することができる。

しかし、無畏は

怖がらないことではない。

その無限は怖いもの知らずではない。

その無畏は自分が二つであることの

了解なのだ。

あなたの一部は死ぬが

あなたの一部は永遠だ。

死ぬ方の一部は

はいつまでも怖がるだろう。

しかし、死なない方の一部、

不死の一部、

その一部にとっては、

怖がることなど無意味だ。

そうした時、

深い調和が現れる。

恐怖は瞑想に使える。

自分が持っているすべてを

瞑想に使うがいい。

それらを乗り越えて

行けるように…


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posted by TARA at 14:03| OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月30日

OSHOの講話 69


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私のメッセージは実に単純だ。

生をできるかぎり

危険に満ちて生きなさい。

生を全面的に

強烈に

情熱的に生きなさい。

なぜなら、

生よりほかに

神はないからだ。


フリードリヒ・ニーチェは

「神は死んだ」と言う。

それは間違いだ。

なぜなら、

神など最初から

そこにいなかったからだ。

どうしてその神が

死ぬなんてことがある…?


生はある。

今までもずっとあったし、

これからも常にあるだろう。

自分を許しなさい…

そして私はくり返し言う、

自分が生に乗っ取られることを

許しなさい。

過去のいわゆる宗教は、

まさにその逆を

教えつづけてきた。

彼らは「放棄しなさい」と言う。

私は『祝いなさい』と言う。

彼らは生を否定し、

私は肯定する。


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彼らは、

生は何か間違ったもの

幻影のようなものだと言う。

そして、彼ら自身の

マインドの投影以外の何ものでもない

神という抽象的な概念を創りだし

その投影を崇拝する。


それは実に非知性的で、

馬鹿げているから、

何百万もの人々が

こうしたまったくのたわごとを

どうして信じてきたのか、

不思議なくらいだ。


ものごとのあるがままが、

マインドの

抽象にすぎないもののために

否定されている。

神とは言葉にすぎない。

だが彼らは、

神は実在すると言う。


生は‘現実’だ。

あなたは生を

自分のハートの

ときめきのなかに感じる。

生はあなたの血のなかで脈打つ…

生は至るところにある…

花に、川に、星に。


それなのに彼らは、

これらはすべて“マーヤ”だ、

すべて幻影だと言う。

生は夢が作られるのと

同じ材料で作られていると言う。

が…、

彼らは神を創る

もちろん、誰もが

自分勝手な想像で神を創る。

だから何千もの神々が創られてきた。

それはあなたの想像だ。

あなたは

頭の四つある神を創ることもできれば、

千の手をもつ神を創ることもできる。

それは‘あなた’次第

あなたのゲームだ。

そして、

これらの人々はずっと言いつづけ

他人のマインドを毒しつづけてきた。


私はあなたに言おう、

生が唯一の真理だ。

生よりほかに神はない。

だから、

生のすべての形、 色、 次元…

その虹全体、

その音楽のあらゆる音色において、

自分自身が

生に乗っ取られるのを許しなさい。

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もし、あなたがこの単純なことを

やっていけるとしたらそれは単純だ。

なぜなら、

それはただ‘手放し'という問題に

すぎないからだ。


川を押し進めてはいけない。

川があなたを

大海へ連れてゆくに任せなさい。


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それはすでに道の途上にある…

あなたはただくつろぐがいい。

緊張したり、

スピリチュアルになろうとしてはいけない。


物質と精神のあいだに、

いかなる境界線も創ってはいけない。

存在はひとつだ。

物質と精神は

同じコインの表と裏にすぎない。

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くつろぎなさい。

休みなさい。

そして、

川と伴に行きなさい。

ギャンブラーでいてごらん。

ビジネスマンでいてはいけない。

そうすれば

あなたはもっと神を知るだろう。

なぜなら

ギャンブラーは

危険を冒すことができるからだ。

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ギャンブラーは計算高くない。

彼は自分のもっているもの

すべてを賭けることができる。

しかし、

すべてを賭けて待っているときの

ギャンブラーのスリル……

さぁ、

どうなるか?

まさにその瞬間に、

窓が開きうる。

その瞬間が、

内なるゲシュタルトの

変容となりうる。

大酒飲みになりなさい。

生に、存在のワインに酔いしれなさい。

しらふでいるのはやめなさい。

しらふの人というのは死んでいる。

生のワインをあおりなさい。

それはほんとうにたくさんの詩と

多くの愛と

多くのジュースにあふれている。

あなたはいつでも

春を連れてくることができる。

ちょっと春に声をかけて

太陽と風と雨を

あなたのなかに入らせなさい…。

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スピリチュアリストたちが

私に反対するのは、

まさにこのメッセージのためだ。

なぜなら、

彼らは私が神を否定していると

思っているからだ。

私は神を否定してはいない。

私がはじめて、

神とは本当は“なに"なのかを

明らかにしている。

私は神に生命を与えている。

私は神をあなたに近づける。

あなたのハートそのものよりも近くに

なぜなら、

神はあなたの実存そのものであり、

かけ離れた何かではなく、

遠くにある何かではなく、

空の上にある何かではなく、

‘今ここ'だからだ。

私は“そのとき、そこで”という

観念そのものを壊そうとしている。

私のビジョン全体は

‘今’と‘ここ’のものだ。

なぜなら、

ここよりほかに場所はなく、

今よりほかにときはないからだ。



Osho - Guida Spiritual


posted by TARA at 12:18| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする