2025年03月08日

OSHOの講話 73

人は30歳には死んで、
70歳で埋葬されると言われている。
死は非常に早くに起きる。

私が思うに30歳というのも正しくはなく、
死はそれよりも早く大体21歳ごろ、
つまり法律と国があなたを市民だと認めるとき、
それが人が死ぬ瞬間だ。
実のところそれが、
彼らがあなたを市民だと認めた理由なのだ。

あなたはもはや危険ではない、
もう野生ではない、
あなたはもうまっさらではないのだ。
あなたの中ではすべてがきちんと収まって、
(社会的常識で)整えられ、
すっかり社会に適合している。

それこそが、
国があなたに投票権を与える時だという意味だ。
国はもう、あなたの知性が破壊されたことを知っており、
あなたについて怖れることはもう何もない。

あなたはもはや1人の人間ではなく、一市民なのだ。

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私自身の観察によれば、人は大体21歳くらいで死ぬ。
その後は何があろうとも、
ただ死後の存在であるに過ぎない。

定義によれば、機知に富んだ人とは、
困難から脱け出す方法を知っている人であり、
賢者とは、決して困難に足を踏み入れない方法を
知っている人のことだ。

だから賢くありなさい。
(自分を困難に引き止める)根そのものを、
なぜ切ってしまわないのか? 

そのためには信じないことだ。
そうすれば不信という問題はない。
そうなれば二元性は決して現れないし、
そこから脱け出す必要もない。

どうかそこへ入っていかないように。

真実は個人のものだ。
そして群集は、真実などそんなものはどうだっていい。
群集が気にかけているのは慰めであり、安楽なのだ。

群集とは、探求者や冒険者、
また未知へと大胆に踏み込む者たち、
つまり自分の生涯を賭けて自分の人生と、
存在の意味や意義を見出そうとする人々から
成っているのではない。

群集はただ耳ざわりのいい、
居心地のいい、甘い言葉を聞きたいだけなのだ。
そうすれば自分からどんな努力をする必要もなく、
そうした慰めという嘘の中で寛ぐことができるからだ。

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次の話は私が最後に故郷の町へ行った時のことで、
1970年のことだった。

そこには私の恩師の1人で、
いつも非常に愛に満ちた関係にあった人が
死の床についていた。
だから私が最初にしたことは彼の家へ行くことだった。
彼の息子は私を玄関で迎えて言った。

「 父にはもう死が迫っています。
 ですからどうか父の気持ちを動揺させないでください。
 父はあなたを愛していたので、
 何度もあなたのことを 思いだしていました。
 今あなたが父に会えば、あなたの存在そのものが、
 父の信じている慰めをなくしてしまうと、
 私たちにはわかっています。
 父はもう死にかけているのですから、
 そんなことをしないでください 」

私は言った。
「 これがもうじき死ぬというのでなければ、
 私はあなたの言うことを聞いたでしょう。
 でも私は彼に会わねばならない。
 (彼の信じている) 嘘や慰めを取り去るのが
 たとえ死の直前であったとしても、
 (その結果)彼の死は
 彼の人生よりも大きな価値を持つことになるのです」

私は立ちはだかる息子を押しやって家に入ると、
老人は目を開け、私を見て微笑んだ。

「 あなたのことを思い出していたよ。
 でも怖れてもいたんだ。
 あなたがこの町に来ると聞いて、もしかすると死ぬ前に、
 もう1度あなたに会えるかもしれないと思った。
 でも本当はすごく怖かった。
 あなたと会うのは危険なことになりかねないからね!」

私は言った。
「 確かに危険なことになるでしょうが、
 私はちょうどいい時に来ました。
 私はあなたが死ぬ前に、
 あなたのあらゆる慰めを取り去ってしまいたいのです。
 その結果、あなたが無垢な死を迎えることができれば、
 その死は途方もなく素晴らしい価値を持つものになり
 ます」

「 あなたの知識をすべて脇へどけてください。
 それはすべて借り物です。
 あなたの神を脇へどけてください。
 それはただの信念で、それ以上の何ものでもありません。
 天国や地獄という観念を、すべて脇へどけることです。
 それはあなたの貪欲さと恐怖に過ぎないのです。
 あなたは一生を、
 こうしたことにしがみついて生きてきました。
 だが少なくとも死ぬ前は、
 すべてを捨てる勇気を出してください。
 もう失うものは何もないのですよ!」

「 死んでいく人には、もう失うものは何もありません。
 死がすべてを打ち砕いてしまうからです。
 (何かにすがりつくよりも)
 自分の手であらゆる慰めを落とし、
 (これから始まる世界へ向けて)
 驚異と探求に満ち満ちて、
 無垢なままで死んでいった方がいい。

 そして死は、
 (人生の最後に訪れる)究極の体験なのです。
 それはまさに(締めくくりとも言うべき)絶頂なのです」

老人は言った。
「 あなたはまさに、私が怖れていたことを要求している。
 私は一生を、神を崇拝しながら生きてきた。
 それをただの仮説だと知りながらね。

 それなのに私は、ただの1度でも
 神を体験したことはなかった。
 空に向かって祈ってきたが、

 どんな祈りも聞き入れられたことなどない。
 それを聞き届けてくれる存在などないと
 分かっているんだ。
 しかしそれはそれで、
 人生の苦しみや不安の中で慰めになってきた。
 無力な人間に、それ以上何ができるだろう?」

私は言った。
「 あなたはもう無力ではない。
 今はもう不安も苦しみも、どんな問題もない。
 それらのすべてはこの世のことです。

 多分、あと数分はまだこちらの岸に留まりますが、
 勇気を出して(向こうへ渡る準備をし)、
 臆病者として死と出会わないようにしてください 」 


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彼は目を閉じると言った。
「ベストを尽くすよ」

部屋には彼の家族全員が集まっており、
彼らはみな私に腹を立てていた。
彼らは、とても保守的な高い身分のカースト・
バラモン(司祭階級)であり、
老人が私に同意したことが信じられなかった。

彼にとって死のショックはあまりにも大きかったので、
それが彼が持ち続けてきた
あらゆる嘘を打ち砕いてしまったのだ。

生きている間は、
嘘だと知りながらもそれを信じ続けることもできる。
しかし死に直面すると、
紙で作った舟に乗って海は渡れないと
完璧に知ることになる。

あなたは自力で泳がなければならない。
そして舟など存在しないと知っておくべきだ。
紙の舟にしがみつくのはもっと危険で、
それはあなたが泳ぐ邪魔になる。
あなたを向こう岸へ連れて行く代わりに、
溺れる原因になるだろう。

彼らはみんな私に怒っていたが、何も言えなかった。

老人は目を閉じたまま、微笑んだ。
「 あなたの話を1度も聞かないでいたのは不運だった。
 今はすごく軽くて、すっかり重荷が下りたような感じだ。
 恐れはまったくなくなったよ。

 それだけじゃなくて、死ぬことに興味も出てきた。
 死の神秘とは何なのか見てみたいよ」


そして彼は死んだ。

笑みを浮かべたままで。




posted by TARA at 18:48| OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月29日

OSHOの講話 72


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三つの基本原理がある。
ひとつめは、
あらゆるものが相互に依存し合っているということ。
二つ目は、
生は両極に分かれていて、この両極は
反発するのではなく互いに補い合うということ。
三つ目は、
それぞれの内に両極が含まれており、
単極で存在するものはないということ。

インドには
アルダナーリシュヴァルという概念がある。
これは道家のアプローチに相当するものだ。
シヴァ神は男の半身と女の半身の両方をもつ者として
像に刻まれたり、絵に描かれたりしている。
彼の半身は男性であり、半身は女性だ。
これらの像が西洋人の目にはじめて触れたとき、
彼らは笑った---
それはとても馬鹿馬鹿しいものに見えた。
この像は何を意味しているのだろう?
今では西洋人たちもその意味を理解している。
それは生の最も基本的なことがらのひとつだ。
あなたがたもそうだ。
シヴァ神と同じように、半分と半分だ。

これらの経文は、この内なる極性に関わっている。
そしてこの内なる極性を越えてゆかないかぎり、
あなたは一なるものに達することなく、
二つに分かれたままだ。
二十四時間のあいだに、あなたは
ひとつの極から別の極へと何度も移り変わる。
見守ってみるがいい。
あなたは男かもしれないが、
ひじょうに女性的になり、
すぐに傷ついてしまうときがある。
あなたは女かもしれないが、
日中にひじょうに男っぽくなるときがある。

女性が男性的になるときには、
彼女はこのうえもなく攻撃的になる---
男がとても太刀打ちできないほど攻撃的になる。
それは女性の攻撃性が、
人が手をつけていない原野のように、
ごく新鮮で、使い古されていないからだ。

そして、それは男の場合にも当てはまる。
男がやさしくなるときには、
彼は本当にやさしくなる、
女よりもやさしくなる。
なぜなら、それは原野であり、
彼の実存のその部分は使い古されていないからだ。
それは新鮮で、ひじょうにいきいきとしている。
だから、あなたがもう少し注意深くなれば、
この奇妙な現象を何度も何度も目にするだろう。

女性は概して愛情に満ちているが、
男性は概して冷淡だ。
女性はまれにしか言い争うことはないが、
そうするときには徹底している。
男が愛情深くなることはめったにないが、
そうなるときには徹底している。
それは彼らの実存の使い古されていない部分だ。
それらが使われるときには、みずみずしさがある。

この内なる極性ゆえに、
人は一種の苦悶、葛藤のなかに置かれているが、
人はそれなくしては存在しえない。
<一なるもの>は不可視のままだ---
神が目に見えないのはそのためだ。
目に見えるものとなるため、
<一なるもの>は
二つにならなければならない。
黒板に白いチョークで書かなければならない。
そうしてはじめて
これらの言葉は目に見えるようになる。

存在するために、人はコントラストを必要とする。
昼間は星が見えず、夜間に見えるのはそのためだ---
夜の暗闇が背景となっている。
昼間でも夜と同じ数だけ星はある---
星はどこかへ行ってしまうわけではない、
どこにもゆくはずがない。
星は同じ位置にある。
夜になるとやってきて、
昼になるとどこかへ姿を隠すというわけではない。
星は同じ位置にあるのだが、
昼間はコントラストが欠けている。
だから星を見ることができない、
それは目ではとらえられない。

神は不可視だ。
神は二つに、男と女にならなければいけない。
物質と精神にならなければいけない。
肉体と魂にならなければいけない。
これとあれにならなければいけない。
二つのものだけが目に見えるからだ。
世界は”二つのもの”から成り立っている。
世界は二元的だ。

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この二元性を
<一なるもの>のなかに消し去らせることができるなら、
そのとたんに、あなたは目に見えなくなる。
この言葉には深い含みがあるが、
それはあくまでも隠喩だ。
老子の姿が見えなくなるとか、
私の姿が見えなくなるという意味ではない。
あなたがたはずっと私を見ているが、
それでもこの私を見てはいない。
その部分は不可視のものになっている。
内側では両極が消え失せ、
二元性はもはやそこにはない。
二元的なものだけが見ることができる。
非二元的なものは目に見えなくなる。

神は二つにならなければならない。
そうしてはじめてゲームが、遊戯が可能になる。
古代インドの聖典には
「彼は深い孤独を感じた」
と書かれている。
「彼」とは神のことだ。
彼は深い孤独を感じた。
彼は他者に恋い焦がれ、そのために二つになった。
彼は男と女になり、
雌牛と雄牛になり、
そしてその分裂が延々と続いてゆく。

森羅万象のすべてが性的だ。
「性的」という言葉で私は二元性を意味している。
森羅万象のすべてが性的だ。
いずれ科学は、男の惑星があり、
女の惑星があることを発見するだろう。
そうであって当然だ。
古代の占星術はそう言っているし、
私はそれにまったく異論がない。
あらゆるものが二元的だ。
太陽が男性の象徴とされ、
月が女性の象徴とされるのはそのためだ。
それは詩ではない。
それは事実だ。
科学はまだそれを発見していないかもしれないが、
そうであるにちがいない。
あらゆるものが二元的だとすれば、
例外などひとつもありえない。

女性あるいは男性に惹かれることで、
人は人としての姿を取り続けている。
さあ、
これでなぜ、いつの時代にも偉大な神秘家たちが
性超越の方法を説いてきたかが理解できるだろう---
性を超越しないかぎり、神への参入は起こらない。
性を超越しないかぎり、けっして”二”の超越は起こらない。
人は二元的な世界につながれたままだ。
”世界”とは姿を顕した神のことであり、
”神”とは再び姿を潜めた世界のことだ。
それもまた二元に---
姿を顕した状態と姿を潜めた状態に分かれている。
キリスト教神学の見解はあまり深くはない。
それはきわめて表面的だ。
キリスト教神学には創造しかない。
破壊はどうなるのだろう?
破壊なくしてどうして創造がありえるだろう?
東洋の神学にはその両方がある。
スルシュティは創造を意味し、プララヤは破壊を意味する。
神が姿を顕す瞬間があり、神が再び姿を潜める瞬間がある---
最初に語ったように、
人間と同様、
あらゆるものが<無>のなかに消えてゆき、ゼロになる。

恋人とともにいると、人はうんざりして、
瞑想をしたくなり、ヒマラヤへ行きたくなる。
神もまた世界にうんざりしてしまう。
それは自然のなりゆきだ。
神は休息を取りたくなる。
そこで神は<一なるもの>のなかへ消えてゆく。
続いて溶解が起こり、
あらゆるものが消え失せてゆく。
だが人はいつまでヒマラヤの洞窟に座っていられるだろう?
神ですらうんざりしてしまう。
神は再び相手を探し求めだし、創造に着手する。

それとまったく同じことが
ひとりひとりの魂のなかでも起こる。
あなたは生を生き、疲れて、生を離脱したくなる。
あなたは肉体を使って生きてきたが、疲れてしまっている。
あなたは今度は肉体を超越したくなる。
そうなったら、あなたはなぜ私が
「世間を恐れてはいけない。
 世間から逃避してはいけない」
としきりに言うのか理解できるだろう。

なぜなら、
世間こそ真の放棄が起こる場所に他ならないからだ。
それは一方の極だ。
私が
「女性あるいは男性から逃げ出せ」
と言わないのはそのためだ。
逃げ出したら、思いは消えずに残る。
逃げてはいけない。
それをとことん生き抜くのだ。
世間にどっぷり身を浸していると、
「もう充分だ、消え去って
 完全な孤独のなかに入ってゆきたい」
という感覚が起こりはじめる。
人は本当に疲れ果ててはじめて
完全な孤独のなかに入ってゆくことができる。

人々はきっと私を誤解することだろう。
インドで私ほど誤解されている者はいない。
彼らは私が人々に耽溺することを教えていると思っている。
私は放棄を教えている。
彼らは私が世俗的なサニヤスを教えていると思っている。
彼らは理解していない。

私が教えているのは真のサニヤスだ。
真のサニヤスは
世俗的な経験を経てはじめて生まれてくるものだからだ。
真のサニヤスはヒマラヤの洞窟のなかでは起こりえない。
それは本物ではなく、押しつけられたものだ。
人は深いところでは世俗的なままであり、
世間にあこがれ、世間を夢見続けている。

世間を生きなさい。
とことん生きなさい。
そうすれば、うんざりし、疲れ果て、
あなたは世間にけりをつける---
とことん生きれば、ある日突然、
世間はいっさいの意味を失い、放棄が起こっている。

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私にとって、真の放棄は
俗世の只中マーケットプレイスで起こる、
俗世の只中においてはじめて起こる。




posted by TARA at 10:44| OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月26日

OSHOの講話 71


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人間は、まさに一種の神経症にかかっている。

これは豊かな可能性をはらんだ状況だ。

あなたは後退するか、

それともジャンプして先に進むか、

そのいずれかだ。

後退してはならない。

後退してしも、あなたが満足することはない。

成長のみが満足を与える――

退行が満足を与えることはけっしてない。

たとえあなたの子供時代がこの上もなく美しく見え、

あなたがふたたび子供になっても、

それはあなたを満足させはしない。

あなたは惨めになるだろう。

なぜなら、あなたは青年期を、

青年期の自由、青年期の冒険を知っているからだ。

かつて自分は子供だったという年寄りじみた意味で

ふたたび子供になったとしても、あなたは幸せにならない。

あなたは高められたのではなく、転落した感じがする。

人間は一種の神経症にかかっている。


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なぜなら、リアリティーへ向かう否定された通路は、

つねに狂気を生みだすからだ。

正常な人々を異常な状況に置くことで、

私たちは異常な行動を入手できる。

現代人は、クラッチやハンドル、

あるいは目的地なしでうなっているエンジンだ。

古い目的地はもはや的外れだ。

今や人間は、

かつて一度も知られたことのない、

まったく新しい何かを学ばなければならない。

今や人間は、

今ここを生きることを学ばなければならない。


そのとおり、

必要なのは方向感覚であり、

固定した目的地ではない。

必要なのは含蓄のある意義であり、

明確な意味ではない。


運命は必要ない――


必要なのは尊厳だ、

必要なのは自由だ。


人間は、自らの自由を探索し、

自分の力で決めなければならない。

与えられた意味はない、

ということを憶えておきなさい。

それが問題だ。

過去には、与えられた意味があって、

あなたは生の意味を教えられていた。


今では、あなたの生の意味とは何かを、

あなたに教える者はひとりもいない―――

あなたはそれを創造しなければならない。

人間は、初めて創造者になる瀬戸際にいる。

今まで、あなたがたは被造物だった。

今や、あなたがたは創造者になる。


こう宣言させて欲しい――

歴史は方向転換しようとしている!

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あなたがたは、新しい意識の入口にいる。

今まで、人間は被造物のように生きてきた――

神が創造者であり、人間は被造物だった。

神が決定者であり、人間は追従者だった。

今では状況が変わりつつある。

人間は、もはや被造物ではなく、

創造者だ。

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今や、

人間が自分自身の生の意味を決めなければならない

人間が、自らの創造力によって、

自分自身の生に意義を与えなければならない。

あなたはそれを語ることができない、

あなたはそれを乞い求めることができない、

あなたはそれを当てにすることができない。

あなたがそれを創造しなければならない。

そして、これは実にたいへんなことだ。

意味を創造するには、

大いなる知性が必要とされる。

意味を創造するには、

大いなる覚醒が必要とされる。

意味を創造するには、

大いなる努力が必要とされる。

だが、人々は物乞いという

単純な策略を身につけている。

誰か――

あなたの父親、あなたの母親が、

あなたに意味を与えてくれる。

あるいは、

天の偉大な父が、

あなたに意味を与えてくれる――

あなたはただ祈りさえすればいい、と。

日を増すごとに仏陀との関わりが大きくなる、

と私が何度も何度も言うのはそのためだ。

時が経つほど、

仏陀と人類の関わりはますます大きくなる。

仏陀の登場は二五世紀早かった。

今が彼にふさわしい時だ。

なぜなら、彼は自由を信じているからだ、

彼は個性を信じているからだ。


彼は、あなたがたが被造物だとは信じない。

彼は、あなたがたが

創造者だということを信じている。

自分自身を創造するがいい。

自分の存在に姿と形を与えなさい。

自分の生を描きなさい、

自分自身を刻みつけなさい。

あなたが何であろうと、

それはあなたの作品だ。

それは運命ではない…

責任はあなたにある。

人々は責任を負いなくない。

彼らは責任を恐れている。

彼らは、他の誰かに自分の面倒を見て欲しい。

彼らはつねに守護者を必要としている。

神経症にかかるのはそういった人々だ。

なぜなら、

もはや守護者は存在しないからだ。

実際、彼らは一度もそこにいなかった。

あなたが彼らの存在を信じていただけだ――

あなたが彼らの存在を信じたからこそ、

彼らはそこにいた。

今や、その信仰は消え、彼らは消え失せた。

彼らは、あなたの信仰によって創られていた。

人間は、

自分の力で独りで生きることを学ばなければならない。

これは大いなる機会だ――

それを否定的にとらえてはならない。

さもなければ、

あなたは精神病院に行くことになる。

それを肯定的にとらえなさい、

その挑戦を受け容れるのだ。

そうすれば、

あなたは地上に現われる初めての

真の人間になる。


posted by TARA at 10:19| OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする