三つの基本原理がある。
ひとつめは、
あらゆるものが
相互に依存し合っているということ。
二つ目は、
生は両極に分かれていて、
この両極は
反発するのではなく
互いに補い合うということ。
三つ目は、
それぞれの内に
両極が含まれており、
単極で存在するものはない
ということ。
インドには
アルダナーリシュヴァル
という概念がある。
これは
道家のアプローチに相当するものだ。
シヴァ神は
男の半身と
女の半身の両方をもつ者として
像に刻まれたり、
絵に描かれたりしている。
彼の半身は男性であり、
半身は女性だ。
これらの像が
西洋人の目に
はじめて触れたとき、
彼らは笑った---
それはとても
馬鹿馬鹿しいものに見えた。
この像は
何を意味しているのだろう?
今では西洋人たちも
その意味を理解している。
それは生の
最も基本的なことがらのひとつだ。
あなたがたもそうだ。
シヴァ神と同じように、
半分と半分だ。
これらの経文は、
この内なる極性に関わっている。
そして
この内なる極性を
越えてゆかないかぎり、
あなたは
一なるものに達することなく、
二つに分かれたままだ。
二十四時間のあいだに、
あなたはひとつの極から
別の極へと何度も移り変わる。
見守ってみるがいい。
あなたは男かもしれないが、
ひじょうに女性的になり、
すぐに傷ついてしまうときがある。
あなたは女かもしれないが、
日中にひじょうに
男っぽくなるときがある。
女性が男性的になるときには、
彼女はこのうえもなく
攻撃的になる---
男がとても太刀打ちできないほど
攻撃的になる。
それは女性の攻撃性が、
人が手をつけていない原野のように、
ごく新鮮で、
使い古されていないからだ。
そして、
それは男の場合にも当てはまる。
男がやさしくなるときには、
彼は本当にやさしくなる、
女よりもやさしくなる。
なぜなら、
それは原野であり、
彼の実存のその部分は
使い古されていないからだ。
それは新鮮で、
ひじょうにいきいきとしている。
だから、
あなたがもう少し注意深くなれば、
この奇妙な現象を
何度も何度も目にするだろう。
女性は概して愛情に満ちているが、
男性は概して冷淡だ。
女性はまれにしか
言い争うことはないが、
そうするときには徹底している。
男が愛情深くなることは
めったにないが、
そうなるときには徹底している。
それは彼らの実存の
使い古されていない部分だ。
それらが使われるときには、
みずみずしさがある。
この内なる極性ゆえに、
人は一種の苦悶、
葛藤のなかに置かれているが、
人はそれなくしては存在しえない。
<一なるもの>は
不可視のままだ---
神が目に見えないのはそのためだ。
目に見えるものとなるため、
<一なるもの>は
二つにならなければならない。
黒板に白いチョークで
書かなければならない。
そうしてはじめて
これらの言葉は
目に見えるようになる。
存在するために、
人はコントラストを必要とする。
昼間は星が見えず、
夜間に見えるのはそのためだ---
夜の暗闇が背景となっている。
昼間でも
夜と同じ数だけ星はある---
星はどこかへ
行ってしまうわけではない、
どこにもゆくはずがない。
星は同じ位置にある。
夜になるとやってきて、
昼になるとどこかへ
姿を隠すというわけではない。
星は同じ位置にあるのだが、
昼間はコントラストが欠けている。
だから星を見ることができない、
それは目ではとらえられない。
神は不可視だ。
神は二つに、
男と女にならなければいけない。
物質と精神にならなければいけない。
肉体と魂にならなければいけない。
これとあれにならなければいけない。
二つのものだけが目に見えるからだ。
世界は”二つのもの”から成り立っている。
世界は二元的だ。
この二元性を
<一なるもの>のなかに
消し去らせることができるなら、
そのとたんに、
あなたは目に見えなくなる。
この言葉には
深い含みがあるが、
それはあくまでも隠喩だ。
老子の姿が見えなくなるとか、
私の姿が見えなくなるという
意味ではない。
あなたがたは
ずっと私を見ているが、
それでも
この私を見てはいない。
その部分は
不可視のものになっている。
内側では両極が消え失せ、
二元性はもはやそこにはない。
二元的なものだけが
見ることができる。
非二元的なものは
目に見えなくなる。
神は
二つにならなければならない。
そうしてはじめてゲームが、
遊戯が可能になる。
古代インドの聖典には
「彼は深い孤独を感じた」
と書かれている。
「彼」とは神のことだ。
彼は深い孤独を感じた。
彼は他者に恋い焦がれ、
そのために二つになった。
彼は男と女になり、
雌牛と雄牛になり、
そしてその分裂が
延々と続いてゆく。
森羅万象のすべてが性的だ。
「性的」という言葉で
私は二元性を意味している。
森羅万象のすべてが性的だ。
いずれ科学は、
男の惑星があり、
女の惑星があることを
発見するだろう。
そうであって当然だ。
古代の占星術はそう言っているし、
私はそれにまったく異論がない。
あらゆるものが二元的だ。
太陽が男性の象徴とされ、
月が女性の象徴とされるのはそのためだ。
それは詩ではない。
それは事実だ。
科学はまだ
それを発見していないかもしれないが、
そうであるにちがいない。
あらゆるものが二元的だとすれば、
例外などひとつもありえない。
女性あるいは
男性に惹かれることで、
人は人としての姿を取り続けている。
さあ、
これでなぜ、
いつの時代にも
偉大な神秘家たちが
性超越の方法を説いてきたかが
理解できるだろう---
性を超越しないかぎり、
神への参入は起こらない。
性を超越しないかぎり、
けっして”二”の超越は起こらない。
人は二元的な世界に
つながれたままだ。
”世界”とは
姿を顕した神のことであり、
”神”とは
再び姿を潜めた世界のことだ。
それもまた二元に---
姿を顕した状態と
姿を潜めた状態に分かれている。
キリスト教神学の見解は
あまり深くはない。
それはきわめて表面的だ。
キリスト教神学には創造しかない。
破壊はどうなるのだろう?
破壊なくして
どうして創造がありえるだろう?
東洋の神学にはその両方がある。
スルシュティは創造を意味し、
プララヤは破壊を意味する。
神が姿を顕す瞬間があり、
神が再び姿を潜める瞬間がある---
最初に語ったように、
人間と同様、
あらゆるものが
<無>のなかに消えてゆき、
ゼロになる。
恋人とともにいると、
人はうんざりして、
瞑想をしたくなり、
ヒマラヤへ行きたくなる。
神もまた
世界にうんざりしてしまう。
それは自然のなりゆきだ。
神は休息を取りたくなる。
そこで神は
<一なるもの>のなかへ消えてゆく。
続いて溶解が起こり、
あらゆるものが消え失せてゆく。
だが人はいつまで
ヒマラヤの洞窟に
座っていられるだろう?
神ですらうんざりしてしまう。
神は再び相手を探し求めだし、
創造に着手する。
それとまったく同じことが
ひとりひとりの
魂のなかでも起こる。
あなたは生を生き、
疲れて、
生を離脱したくなる。
あなたは
肉体を使って生きてきたが、
疲れてしまっている。
あなたは今度は
肉体を超越したくなる。
そうなったら、
あなたはなぜ私が
「世間を恐れてはいけない。
世間から逃避してはいけない」
としきりに言うのか
理解できるだろう。
なぜなら、
世間こそ
真の放棄が起こる場所に
他ならないからだ。
それは一方の極だ。
私が
「女性あるいは男性から逃げ出せ」
と言わないのはそのためだ。
逃げ出したら、
思いは消えずに残る。
逃げてはいけない。
それをとことん生き抜くのだ。
世間にどっぷり身を浸していると、
「もう充分だ、
消え去って
完全な孤独のなかに入ってゆきたい」
という感覚が起こりはじめる。
人は本当に疲れ果てて
はじめて完全な孤独のなかに
入ってゆくことができる。
人々はきっと
私を誤解することだろう。
インドで私ほど
誤解されている者はいない。
彼らは私が人々に
耽溺することを
教えていると思っている。
私は放棄を教えている。
彼らは私が
世俗的なサニヤスを
教えていると思っている。
彼らは理解していない。
私が教えているのは
真のサニヤスだ。
真のサニヤスは
世俗的な経験を経て
はじめて生まれてくるものだからだ。
真のサニヤスは
ヒマラヤの洞窟のなかでは起こりえない。
それは本物ではなく、
押しつけられたものだ。
人は深いところでは
世俗的なままであり、
世間にあこがれ、
世間を夢見続けている。
世間を生きなさい。
とことん生きなさい。
そうすれば、
うんざりし、
疲れ果て、
あなたは世間にけりをつける---
とことん生きれば、
ある日突然、
世間はいっさいの意味を失い、
放棄が起こっている。
私にとって、
真の放棄は
俗世の只中マーケットプレイスで起こる、
俗世の只中においてはじめて起こる。
Osho - The Secret Of Secrets
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