そして、
あなたは狂っている。
私と共にいることが出来るのは、
狂った人々か、
それとも勇気ある人々のいずれかだ。
論理的に、
抜け目なく、
打算的に考える者たち、
彼らは、
私と共にいることが出来ない。
勇気もまた、
狂気の一面だ。
狂気は、
勇気の上をゆく。
が、
勇気もまた、
その一面だ。
勇気とは一体、
何なのか?
それは、
あなたのマインドが言い、
あなたの論理が言い、
あなたの正気が言っている、
全てのことをものともせずに、
それでも進むという意味だ。
あなたは危険を知っている、
あなたは危ういことを知っている。
それでも、
あなたは進む。
自分が知っている、
あらゆることにもかかわらず、
それでもあなたは、
ある体験の中に入ってゆくことを選ぶ・・・
それが勇気だ。
勇敢な人々もまた、
狂っている。
とはいえ狂気には、
勇気以上のものがある。
狂気は、
もっと活気にあふれている。
狂気には、
もっと多くの次元がある。
未知なるものに入るために、
計算ばかりしている人間が、
いかに私と共にいられよう?
彼はいつでも計算する。
ここには、
絶えず計算している人々がいる・・・
彼らの歩みは、
きわめて打算的だ。
が、
彼らは、
取り逃がし続けることになる。
彼らの歩みは、
充分躍動的ではありえない、
彼らの歩みは、
量子的跳躍ではありえない。
彼らは、
もくろむがゆえに、
自分たちの知識の境界内にとどまる・・・
彼らは、
既知なるものの内にとどまる。
未知なるものについて、
いかに計算できるだろう?
自分がまだ知らないものについて、
いかに考えることが出来るだろう?
あなたは、
自分の知識をすべて風に乗せ、
投げ捨てなければならない、
そうして初めて、
あなたはその中へと入ることが出来る。
だから、
ときとして、
愚者が行き着き、
いわゆる賢者が、
遅れをとることがある。
愛の中、
祈りの中、
瞑想の中、
神の中では、
一種の気違いじみた勇気が、
絶対に必要だ。
ひとたびあなたが、
その世界に入ってしまえば、
その時には、
勇気は不要だ。
それは、
最初に口火を切る地点だ。
ひとたびあなたが、
聖なるものの世界に入ってしまえば、
ひとたびあなたが、
その何かを味わってしまえば、
その時には、
アループは正しい・・・
それを捨てるのは、
気違いじみている、
それを捨てるには、
途方もない勇気がいる。
実際、
それを捨てるには、
たいへんな愚かさがいる。
そして、
世間に戻ることは不可能だ・・・
それは起こらない、
それは起こりえない。
聞いた話だが・・・
ある男が、
車がパンクしたことに気づいた。
そこで、彼は車を止めて、
タイヤの交換を始めた。
車は、
精神病院の前に止めてあった。
彼がタイヤを換えているところを、
ひとりの入院患者が堀越しに、
しげしげと見つめていた。
ドライバーはうっかりタイヤのねじを、
下水溝の鉄ぶたの中に落としてしまった。
どうすればいい?
しばらくすると、
入院患者が彼を呼んで、
残りの3つのタイヤのねじを
ひとつずつ使って、
4番目のタイヤを止めればいいと言った。
「すごく頭の切れる発想だ」
とドライバーは言った。
「またどうしてそんな君が、
こんな壁の中に閉じ込められているんだい?」
「それも単純明快さ」
と入院患者は言った。
「俺がここにいるのは、
馬鹿だからじゃない、
狂っているからさ」
アループ、
あなたがここにいるのは、
狂っているからだ。
それに今となっては、
去ってゆくことは不可能だ。
その地点は、
すでに過ぎてしまった。
ある地点がある・・・
その地点の手前では、
人は、
逃げたければ逃げることが出来る。
ひとたび、
その地点を過ぎてしまうと、
あなたは戻れない。
そうなったら、
たとえ私から去っていっても、
あなたは、
私から離れることが出来ない。
そうなったら、
どこにいようと、
あなたは自分の内側に私を見出す。
そして、
どこで生きていようと、
あなたは私の風土の中に生きている。
交感(コミュニオン)、
魂の出会いの地点がやって来る。
ひとたびそれが起これば、
後戻りの出来ない地点が
やって来たことになる。
神について考えること、
神を探し求めること、
神に帰依し、
自らの生涯を捧げることですら、
勇気があり、
気違いじみている。
(54へ続く・・・)
(54へ続く・・・)
Osho - Take It Easy
【関連する記事】