明晰さとは何だろう?
明晰さとは
雑念がない心の状態をいう。
雑念は
空に浮かぶ雲のようだ。
空が雲でいっぱいになっていたら、
太陽を見ることはできない。
あなたの空に、
あなたの内なる大空に、
あなたの意識に
雲がかかっていないとき、
明晰さが生まれる。
いいかね、
明晰さとは
頭が切れることではない。
頭が切れる者たちは、
明晰な人々ではない。
頭の回転を
早くさせることは簡単だ。
頭が切れるというのは、
抜け目なく立ちまわる
ということに他ならず、
ずる賢さを
ましな言葉で
言い換えただけのことだ。
頭が切れる者たちは
ずる賢い人々ではあっても、
明晰な人々ではない。
いいかね、
理知的であることは
聡明であるということではない。
理知的であることはやさしい。
情報を集めればいいし、
知識を習得すればいい、
そうすれば、
すばらしい知識人、
学者、パンディットになることができる....
だが、
そんなものは明晰さではないし、
そんなものは聡明さではない。
聡明さというのは
それとはまったく逆のものだ。
頭のなかを
知識がうごめいていないとき、
内なる空に
一片の雲もよぎっていないとき、
何の計算もなく、
何の狡猾さもなく、
何のずる賢さもないとき、
まったく何も考えず、
ただあるものを
すべて映しだす
鏡のようになっているとき....
それが明晰さだ。
明晰さとは
鏡のような質をいう。
そして明晰になることが
神に直面することだ。
神を知識で知ることはできない、
神は明晰さによって知られる。
神は利口な頭や、
小賢しい知恵によって
知られるのではなく、
天真爛漫なこころによって知られる。
天真爛漫であることが明晰さだ。
イエスが
「幼子のようにならないかぎり、
私の王国に入ることはできない」
と言うのはそのためだ。
彼は何を
言おうとしているのだろう?
彼はただ
こう言おうとしている....
その内なる空が
まだ雲に覆われていない、
その鏡がまだ
ほこりで汚れていない、
その知覚が
一点の曇りもなく澄みきっている
幼い子どものように
清らかにならないかぎり……。
彼はものをあるがままに
見ることができる。
彼はそれをゆがめないし、
ゆがめることで
利を得ようとはしない。
彼は投影せずに、
どんな状況も
すべてありのままに見る。
彼は受動的な鏡になっている....
それが明晰さだ。
まだはっきりつかめないなら、
仏教徒の三つの観想....
空観(くうがん)、
仮観(けかん)、
中観(ちゅうがん)...
を使って説き明かしてみよう。
この仏教徒の三つの観想は、
最も優れた
瞑想の方便のひとつだ。
いいかね、
それは方便であって、
哲学ではない。
それを哲学ととらえてしまうと、
要点を丸ごと見逃すことになる。
それは起こった。
何世紀にもわたって、
仏教哲学に関する
様々な大論文が書かれてきたが、
それは愚にもつかないたわごとだ。
なぜなら、
仏陀は哲学者ではないからだ。
彼はいかなる哲学も
教えなかった。
実際、
彼は反哲学的な姿勢を強く取った。
仏陀が町を訪れるときは、
必ず弟子たちが
先に町に行って、
「哲学的な質問を
仏陀にしないでください」
と触れてまわるのが
慣例になっていた。
仏陀は
十一の質問のリストを用意していた。
その十一の質問のなかに
すべての哲学が含まれていた....
神について、
天地創造について、
輪廻転生について、
死後の生について等々。
この十一の質問のなかには、
ありうるすべての
哲学が含まれていた。
その十一の質問のリストを見れば、
どんな質問もできなくなる。
そのリストが町中に伝えられた。
「仏陀は哲学者ではありません。
形而上学者ではありません。
思想家ではありません!
だから、こういった質問は
仏陀にしないでください。
彼は哲学者ではなく、
医者としてここに来たのです。
目が見えなければ、
薬を調合しますし、
耳が聞こえなければ、
手術をします」
仏陀は
「私は医者だ」
と何度もくり返し言っていたが、
彼の名のもとに
壮大な哲学が生まれ、
彼が方便として用いた言葉が
哲学的な教義になってしまった。
例えば、
空(くう)....
「すべては空である」....
これが根本的な原理であると主張する
仏教の教派がいくつかある。
それは方便にすぎない。
それは客観的事物については
何も言っておらず、
人間のマインドについて
あることを言っているだけだ。
それはあなたが明晰になるのを助ける、
ただそれだけのことだ。
仏陀の関心は客観的な事物ではなく、
あなたの明晰さにある。
彼は
「明晰であれば、
存在の実相がわかる」
と言う。
だとしたら、
客観的な事物について
語ってみてもしかたがない。
まったく何の益にもならない。
それは光や色や虹や花のことを
盲人に語ってみるようなものだ。
それはまったく馬鹿げている。
盲人に昇る太陽のことは
伝えられない。
盲人に銀色に輝く月の光のことは
伝えられない。
盲人に樹々の緑のことは
伝えられない。
盲人にとって
「緑」は何の意味もなさないからだ。
言葉は聞こえてくる....
あなたが「神」という言葉を
耳にするのと同じように、
盲人は「緑」という言葉を耳にする。
あなたは理解しないし、
盲人も理解しない。
その言葉を
何度も何度も何度も
聞いているからといって、
自分は神が何であるかを
理解しているなどといった
馬鹿な考えを抱いてはいけない。
神を理解するためには
神を目で見なければならない。
それ以外に方法はない。
緑を理解するためには
目で緑を見なければならない。
それ以外に方法はない。
Osho - The Secret Of The Secrets
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