2022年04月01日

OSHOの講話46【統合】



4/1の晩春新月は風が強い晴れの日に。


昨日の雨は思いのほか降り続き

大地がかなり潤いました。

草木たちが一気に伸びそうです。


嬉しくもあり@地球

恐ろしくもある@畑


と言う感じで

常に葛藤があるマインド❣


そんな私ではありますが


OSHOの講話でこの始まりを祝いたいです^人^☆彡



今回もいろんなカードが添えられますが、

選んだカードは【統合】


B14.jpg


 『 ユニオ・ミスティカ

    神秘なる合一 』



背景として

内なる風景として

共につながりあった森羅万象中の

空と色

色と空

共振曼荼羅なのでしょう・・・・

ーーーー

宗教的な人とは、

存在には問題などないということを

見抜いている人の事だ

それは神秘であり、奇跡だ

その中に深く飛び込みなさい

それを祝いなさい!

それを祝祭にしなさい

歌い、踊り、愛し、祈り、

描き、音楽を創りなさい

だがそれを解こうと

してはいけない

音楽家は

哲学者よりずっと実在に近い

詩人も

哲学者よりもずっと近い

ダンサーは

音楽家や詩人よりも

なお一層近い

なぜ踊り手は

それほど近いのか?

それはダンスの中で

あなたは解け去るからだ…

踊り手は消えて、

ただ踊りだけが残る

踊りは、

あらゆる最も深い瞑想の一つだ


インドでは神は、

ナタラジ、

踊り手として描かれる

これは実に意義深い

なぜなら、

画家が絵を描くときには、

彼は直ちに

絵と分離するからだ

絵が彼の存在の中に

とどまっているなら、

彼はそれと一つだ

それがまだ隠れているとき、

ただの種子、

思考にすぎないもの、

夢であるときには、

画家は自分の絵と一つだ

それを描いた途端に、

それをキャンバスの上に

注ぎ出すや否や、

彼はそれから分離する

二元性が起こってくる

それは詩人の場合でも

同じであり、

音楽家の場合でも同じだ

踊り手だけが

どこかユニークだ…

踊りでは常に踊りと一つだ

彼が踊り始めるときですら、

その統一は崩れないし、

二元性は生じない

ただ一つのものがある

実際には踊り手が

踊りについて

考えるときには

二元性がある…

踊りについての考えと

そして踊り手が…

微妙な二元性がある

彼が踊り始めると、

その二元性ですら

消えてしまう

踊り手は踊り手になる

踊りから遊離した

踊り手がいるわけでなし、

踊り手から遊離した

踊りがあるわけではない

それは

『ユニオ・ミスティカ、

神秘なる合一』だ

神は踊り手だ

つまり、


神は世界を

描かなかったということだ


そうでなかったら、

神は世界から

分離していたことだろう

世界は

神が歌う詩ではないし、

神が奏でる音楽ではない

世界は神の踊りだ

神はその中にあり、

神がそれだ…

まさにこの時、

これらの緑の木々、

その葉陰から

漏れる黄金の光、

小鳥たちの鳴き交わす声、

そしてあなたたちは

沈黙の内に坐り、

どんな特別な

理由もないままに

私と共にあり、

このとき、

この沈黙を楽しんでいる


『これがそれだ』


Osho


posted by TARA at 11:42| Comment(0) | 出店情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください