2021年04月03日

OSHOの講話 37

4/1はtaraのサニアスバースディ

2012年から9年目になりました^人^


KIMG4382.JPG
*高知 大岐海岸


年数だけがすぎてきてる感じもします。

向かうところにないどこかを

まだ目指してる。。。

これを通過しながら

起きることを

そのままに

海岸に向かう・・・


令和3年

風の時代といわれるようになり、

マインドフルネスという言葉があり、

瞑想の時代になってきています。


OSHOの講話を

久々にシェアします。

ーーー

私の臨在の許で受容的であるなら、

愛に満ちているなら、

その思考は一瞬、離れる…


それは離れざるを得ない。

思考よりも

重要なことが起こっている。


それが愛だ。


人は自分を犠牲にできる…

信頼の中で、

人は思考を犠牲にする。


そして、


その思考が脇におかれた瞬間、

人は実在を見る。


と、それは実に美しい。

名状し難いほどに美しい。


そして、そういう瞬間、

人はまちがいなく、

自分が光明を得ることなど

望んですらいないと感じる。


もしこの現実が続くものなら、

光明はこの上何を

与えることができるのだろう。


その通りだ。


なぜなら、これこそが

光明の始まりだからだ。


まさに一瞥を得た。


そして、その一瞥でさえ、

光明を求める欲望を

捨てさせる…


すると、

その欲望を落とすことが


光明が起こることを

容易にする。


それはただ起こる。


ある日、突然、

朝、目が覚めてみれば、


自分はもう同じ

人間ではない。


すると自らの変化とともに、

全存在が変化している。


そうなれば、

それを保つために

何かをするという

問題ではない。


それは自分のもとに

とどまる。


実際は、

捨てようと思ったところで、

それを捨てるわけには

できない。


もう後戻りはできない。


前進できるだけだ。


そしてある日、

自分の「生」に

光明というものが、

自分にとってあまりに

自然なもの…


まるで呼吸のような、

まるで心臓の鼓動のような、


自らの血管を

かけめぐる血液のような…


自分が感じることも

できないような、

自然なものになるときが

訪れる。


血液は足の先から

頭まで全身を非常な速さで

かけ巡っているのだが、


私たちはそれを

感じることはない。


それとともに生まれ、

それに慣れているからだ。


光明が単なる

自然現象になったとき、

最後の神秘がその扉を開く。


人は光明をも超えていく。


光明を超えていくとは、

人がただ当たり前に、

この広大な宇宙の

一部になることだ…


何を要求することもなく、

どんな優越性もなく、

少しのエゴもなく。


人はただ、

朝日に照らされて、

蓮の葉から海に落ちる

朝露のように、

実在の海に溶け込むだけだ。


それが最後だ…。

そうなれば、

もう何も起こることはない。


人は海になる。


光明にはまだ、

自分の中の何かが

残っている…

極めてかすかではあるが、

まだ「自分」という

何らかの思いがある。


また、

光明のゆえに、

知らず知らずに、

優越感を抱く。


だからこそ、

最後の一歩がある。


そのほんのわずかな

「自分」さえ解体するとき…


今や人は、

優れてもいなければ

劣ってもいない。


自分はいない。


存在がある。


仏陀はそれを

涅槃(ニルヴァーナ)と呼ぶ。


仏陀はそれを表す最適な

言葉を選んだ。


Osho


posted by TARA at 09:12| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください