雪の4℃も結構耐えられるとおもったりしましたが、
続くとこたえるのかもしれないし
温度と体感温度がいつも比例するわけでもないなぁと感じます。
豆炭のほりごたつにしてみたのですが、
てんこさんが知らないうちにはいってて。。。
一緒に共有できないため
豆炭こたつもできなくなりました。
さてさて、
今日出会ったOSHOの講話です。
生には二つの対極がある
― それは瞑想と愛だ。
これが、究極の極性だ
生はすべて対極から成り立っている。
― 陽性と陰性、誕生と死、男と女、
昼と夜、夏と冬から。
生はすべて対極から
成り立っているが、
これらの対極は単に対極ではなく、
それらはまた相補うものでもある。
それらは互いに助け合っており、
互いに支えあっており、
ちょうどアーチを組み立てている
レンガのようだ。
アーチではレンガは
互いに拮抗するように、
並べなければならない。
それは互いと
対抗しあっているように見えるが、
その対置によってアーチは
建てられ、
その形を保っている。
アーチの強さは、
互いに対抗するように
並べられたレンガの極性に
依存している。
これは究極の極性だ
― 瞑想とは独りあることのわざであり、
愛とは共にあることのわざだ。
トータルな人間とは、
その両方を知っていて、
一方からもう一方へといともたやすく、
移ることができる人のことだ。
それはちょうど、
息を吸ったり
吐いたりするようなもので、
何ひとつ難しくはない。
それらは反対だ。
息を吸うときのプロセスと
息を吐くときのプロセスは反対だ。
だが、息を吸って吐くことで、
ひとつの完全な呼吸が成り立つ。
あなたは
瞑想では息を吸い、
愛では息を吐く。
この愛と瞑想が一緒になって
あなたの呼吸は完全なもの、
欠けるものがないもの、
全体的なものになる。
私の理解は一方の極だけに
根ざしてはいない。
私の理解は流動的だ。
私は真理を両面から味わっている。
私はトータルに愛したし、
トータルに瞑想した。
私の経験によれば、
人はその両方を知って、
初めて全体になる。
そうでない限り、
彼は半分のままだ。
彼の中では何かが欠けている。
仏陀は半分であり、
イエスも半分だ。
イエスは愛を知っており、
仏陀は瞑想を知っているが、
もしも二人が出会ったら、
彼らが意思を通じ合うことは
ほとんど不可能だっただろう。
彼らは互いの言葉を理解しなかっただろう。
イエスが神の王国について語ると
仏陀は笑い出す。
「何て馬鹿なことを言うんですか
― 神の王国ですって?」
仏陀はただこう言う。
「自己の滅却、自己の消滅ですよ」
するとイエスが言う。
「自己の消滅?自己の滅却?
それは自殺すること、
究極の自殺じゃないですか。
これは何てたぐいの宗教でしょう、
至高の自己について語るなんて?」
彼らは互いの言葉が
理解できなかっただろう。
彼らが会うのだとしたら、
私のような通訳が必要であり、
そうでない限り、
彼らの間には意思の疎通というものが
なかったろう。
そして私はどちらに対しても、
不誠実になってしまうような
やり方で通訳しなければならない!
イエスが「神の王国」と言うと、
私はそれを「ニルヴァーナ」と訳す。
すると仏陀は理解する。
仏陀が「ニルヴァーナ」と言えば、
私はイエスに「神の王国」と言い、
それで彼は理解する。
人間は今やトータルな
ヴィジョンを必要としている。
私たちはあまりにも
半分の視点で生きてきた。
それは過去には必要なものだったが、
今や人間は成年に達した。
私のサニヤシンは
瞑想すると共に
愛することができ、
この上もなく静かになると共に
踊りかつ祝い続けることができるということを
証明しなければならない。
彼らの静寂はまた祝祭にも
ならなければならなし、
彼らの祝祭はまた静寂にも
ならなければいけない。
私はこれまでどんな弟子にも
与えられていないほどの
困難な責務を与えているが、
それはこれが対立するものの
出会いになるからだ。
この出会いにおいて、
対立するものが融けあい、
ひとつになる。
東洋と西洋、
男と女、
物質と意識、
この世とあの世、
生と死が。
このひとつの出会いを通じて、
すべての対立するものが出会い、
溶けあう。
なぜなら、
これは究極の極性であり、
それはすべての極性を含むだからだ。
この出会いは<私の>人間を創り出す
― ゾルバ・ザ・ブッダを。
それが新しい人間のための名前だ。
私のサニヤシンのひとりひとりは、
そのような流動性、
流れになるために、
両極が自分に蔵するように
なるために、
あらん限りの努力を
しなければならない。
そうすれば、
あなたは
全体性を味わうだろう。
全体性を知ることが
<聖なるもの>を知る
唯一の道だ。
ほかに方法はない。
OSHO「英知の辞典 タイキョク対極」