タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。
OSHOの講話は、叡智なので、OSHO禅タロット読み人TARAです。
OSHOの口からでても、誰のものでもない。。。
だからOSHOの講話自体は
本を手元にもっていなくても
抜粋というかたちではありますが
そこに自己解釈を加えないままで
誰かがどこかでシェアするという形で
日常に顕れています。
例えるなら
花ひらいた芳香・・・
木々を吹き抜ける風・・・
暗闇の中の稲妻・・・
前置きが長くなりましたが、
シェアします。
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海に行ってみなさい。
そこに無数の波が立っている。
あなたはいつも
海ではなくて波を見ている。
なぜなら
表面にあるのはそれだからだ。
だが、
波は海の波立ちにほかならない。
波という波を
波立たせているのは海だ。
海を覚えておき
波のことは忘れてしまいなさい。
なぜなら
波は実際には存在せず、
ただ海だけが存在するからだ。
海は波がなくても存在できるが、
波は海がなければ存在できない。
海がなかったら、
そこには波もない。
それともあると思うかね?
だとしたら
そこで波立ってるものは何だろう?
波はそれだけでは
存在することはできないが、
海はできる。
波はなくてもよい。
海は穏やかなときもある。
風が吹いていなければ、
海はただそこにあって、
静まりかえっている。
海は波なしでも存在できるが、
波は海なしで存在できない。
だから
波は表面的なものであり、
それは付随的なものだ。
波は風の働きによって、
存在するようになった。
それは
外側から存在するようになった。
何かの諸条件が
それらをつくりだした。
風が吹いていなければ、
海は静まりかえって
波だっていない。
だから波は外側から、
表面につくりだされた
付随的なものだ。
海はそれとは
まったく異なっている。
すべての存在についても
同じことが言える。
木もまた波であり、
人間もまた波であり、
岩もまた波だ。
そして
岩の、木の、人間の背後には、
同じ海が隠れている。
「ウパニシャッド」は
この海を
『ブラフマン』と呼ぶ。
ブラフマン、
究極の魂、
絶対的な魂は、
このまさに海だ。
だから人間を見るときも、
その表面に
しがみついてはいけない。
ただちに深みにおもむいて、
そこに隠れている
ブラフマンを見なさい。
Osho - Vedanta ; Seven Steps To Samadhi
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