愛にとりつかれたらどうする?
愛するがいい!
何も『しない』こと。
愛が自分を支配するのを許すのだ。
恐怖がやってきたら、
震えなさい。
大風の中の木の葉のように、
そしてそれはビューティフルだろう。
それが去ったとき、
あなたはこの上もなく
穏やかな静けさを感じるだろう。
大嵐が去ったあと、
何もかも穏やかに鎮まるように…
どうしていつもいつも
何かと戦うのか?
恐怖がやってくる…
自然なことだ。
全くもって自然なことだ。
恐怖のない人間など考えられない。
そんな人間は死んでいるも同然だ。
他の人が道で警笛を鳴らしても
恐怖のない人間は歩き続けるだろう。
知らんぷりだ。
行く手に蛇がいても、
恐怖のない人間は構うまい。
平気で歩き続けるだろう。
恐怖のない人間など全くの痴愚だ。
恐怖というのは
あなたの知性の一部なのだ。
何もおかしいところはない。
恐怖はそこに死があることを
示しているに過ぎない。
我々人間というのは
ほんの束の間ここにいるだけだ。
おののきは
我々が永遠にここにいるのでは
ないこと教えてくれる。
我々は永久にここにいるわけではない。
何日もしないうちに
あなたはいなくなってしまうだろう。
実際、恐怖のおかげで
人間は宗教を追い求めてきた。
恐怖がなかったら、
宗教など無意味だったろう。
宗教心のある動物はいない。
恐怖を持った動物がいないからだ。
死を意識できる動物がいない以上、
宗教心を持てる動物もいない。
人間は死を意識している。
一瞬一瞬、死はそこにある。
四方八方からあなたを
取り巻いている。
いつも何時にも、
あなたはいなくなってしまう。
それが身震いを起こさせる。
どうしてそれを怖がることがある?
震えるがいい!
ところがまたしても
エゴはこういう、
「だめだめ、お前が怖がるなんて…
いいや、これはお前らしくない。
こんなのは臆病者がやることだ。
お前は勇敢な人間だろう?」
恐怖は臆病者向けなんかではない。
恐怖を許しなさい。
ただひとつ理解されるべきことがある。
恐怖に許し、
震えおののく時は、
それを見守りなさい。
それを楽しみなさい。
その注視の中で
あなたは恐怖を超越するだろう。
あなたは体が震えるのを
目にするだろう。
マインドが震えるのを
目にするだろう。
しかしあなたは自分の中に一点、
それに左右されることのない
深い中心があるのに気付くだろう。
嵐は通り過ぎる。
しかしあなたの内のどこか
深いところには
触れられざる中心がある。
台風の目だ。
恐怖を許しなさい、
それと戦わないこと。
何が起こっているのかを
『見守る』がいい。
見守り続けてごらん。
見守るにつれて、
あなたの目には、
透視力が出てくる。
体は震えているだろう。
心は震えているだろう。
が、あなたの内の奥深くには
意識がある。
それは純然たる観照者、
ただ見守るだけだ。
それは水に浮かぶ蓮の花のように
何者にも触れられることがない。
それに達したときは初めて、
あなたは無畏に達することができる。
しかし、無畏は
怖がらないことではない。
その無限は怖いもの知らずではない。
その無畏は自分が二つであることの
了解なのだ。
あなたの一部は死ぬが
あなたの一部は永遠だ。
死ぬ方の一部は
はいつまでも怖がるだろう。
しかし、死なない方の一部、
不死の一部、
その一部にとっては、
怖がることなど無意味だ。
そうした時、
深い調和が現れる。