2023年01月01日

OSHOの講話 61


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〈生〉は

ひとつの有機体だ。

何ひとつ

分割されてはいない。

あらゆるものが一体だ。

もし、

それを

分割されていると

考えるなら、

その分割は

マインドによって

押しつけられたものだ。

さもなければ、

あらゆるものは

混ざり、溶け込み、

他のものの中に

融合している。

これが

四六時中

起こっていることだ。

それが

見えないのは、

人が言葉によって

完全に

盲目にされているからだ。

果物をひとつ食べるとする。

その果物は自分の血になる。

その木が自分に混ざり、

境界はなくなった。

それにその果物は

それまでたくさんの人の

血であったかも知れない。

いろいろな動物や、

いろいろな植物や、

さまざまな岩で

あったかも知れない。

果物であるこのエネルギーは、

常に存在の中にあった。

融解し、

溶け入り、

溶け出し、

これからあれへと移動し、

あらゆる境界を

通りすぎながら。

どんな現象でもいい。

ちょっと見てごらん。

樹に実ったあの果物は

何をしているのか。

科学者は

果実がやっていることは

奇跡だと言う。

それは、

大地の変容、

日の光の変容、

水の変容だ。

それは奇跡だ。

何しろ、

土を食べることはできないし、

太陽の光を直接

食べることもできないのだから。

この果実、

林檎は奇跡を行なっている。

それはあらゆるものを変容し、

人が吸収できるような物に

しているのだ。

かくして、

それは

人の血となることができる。

そしてこのエネルギーが、

常に動いて来ている。

それは

いつもそこにあったからだ。

エネルギーの全体は

同じままだ。

どこにも行く所がないのだから、

そのエネルギーは

多くも少なくもなりようがない。

宇宙には

何ひとつ加えられもしなければ、

そこから

何ひとつ削り取られることも

あり得ない。

どこへ持って行くと言うのかね。

全体は同じままだ。

ある時、

その果実は土の中にいた。

それを食べることなど

できるはずもなかった。

その果実は太陽の中にいた。

そのビタミンDは太陽の中にあった。

今では、

その果実がそれを吸収している。

今や大地は変容した。

奇跡が起こっている。

奇跡を見るために、

どうして

手品師の所になど行くのか。

それは起こっている…

土が美味しい果実に変わったのだ。

あなたがそれを食べれば、

それは血になる。

その血は絶え間なくかけめぐり、

精子を創る。

今やひとつの種が生まれ、

それは小さな子供になる。

あの果実、

あの林檎は、

今では子供に変わっている。

どこに境界がある。

木はあなたの中に移り、

太陽がその木に移る。

海がその木に移り、

あなたが子供に移り、

それが続いて行くのだ。

あらゆるものが動いている。

あなたの中にある息は、

少し後には私の中にあるだろう。

息は生命だ。

だから、

あなたの生命と私の命は

別物ではあり得ない。

同じ息をあなたも呼吸し、

私も呼吸するのだから。

私が吐き出し、

あなたがそれを吸い込む。

あなたが吐き出し、

私がそれを吸い込む。

あなたの心臓と私の心臓は、

さして別ものではあり得ない。

それはまわりにある

同じ活力の海を呼吸し、

脈打っている。

私はこれを私の息と呼ぶ。

だが、

私がそれを自分のものと

呼び終える頃には

それはもう私のものではない。

それは動き、

棲み家を変えている。

今度は、

誰か別の人の息になっている。

人が、

自分の命と呼んでいるものは、

自分のものではない。

それは誰のものでもない。

あるいはみんなのものだ。

実在を見る者があれば、

その人には

全体が

ひとつの有機体であることが

分かるはずだ。

太陽は

あなたのために働いている。

星は

あなたのために働いている。

世界中の人々が

あなたのために働いている。

海は

あなたのために働いている。

そして

あなたも

その人たちのために働いている。

あなたが死ねば、

虫がその肉体を食べるだろう。

あなたは彼らの食物になる。

あなたは熟し、 死に、

誰か他の者の食物になるための

準備をしているのだ。

そして、

これはそうでなくてはならない。

あなたは実にたくさんのものを

自分の食糧にして来たのだから。

最後には自分が

彼らの食物に

ならなくてはならない。

あらゆるものが、

他の誰かのための食物だ。

それはひとつの鎖だ。

ところが、

あなたは生に執着したい。

では、

林檎はどうなのか…

林檎も生に執着したい。

小麦はどうなのか…

小麦も小麦のままでいたい。

が、

そうなれば、

生は終わるしかない。

生は死を通して生きている。

こちらであなたが死ねば、

向こうで誰かが生きる。

私が息を吐き出す、

誰かが息を吸い込む。

生と死もちょうど

その吐く息と吸う息の

リズムのようなものだ。

生は吸う息、

死は吐く息。

熟すれば、

あなたは大地の上に落ちる。

すると

虫があなたを食べるだろう。

猛禽類が寄って来て、

あなたを

啄(ついば)むことだろう。

あなたは

たくさんの食べ物を楽しんだ。

今度は

あなたが楽しまれる番だ。

あらゆるものが

溶け、出会い、 融合する。

だとすれば

何を思い煩うことがあろう。

これが

起こるべきこと、

これが

すでに起こっていることだ。

全体だけが生きている。

「個」とは偽りだ。

究極なるものだけが

生きている。

他はすべて

その中の波に過ぎない。

それは

やって来てはまた去る。

人が鼻の先の実在を見るなら、

突如として、

そこには何の問題も、

不安もない。

自分が生きていようといまいと、

全体は生き続けるからだ。

では、

自分の死など問題ではないのだ。

それなら、

自分の生だって問題ではない。

自分は全体の中で

何百万、何千万の姿で

生きて行くだろう。

時には、

自分は果物になるだろう。

これがヒンドゥー教の、

何百万のヨーニという概念の

意味するものだ。

ある時、

自分は獣だった。

またある時、

自分は昆虫だった。

またある時は木だった。

またある時は岩だった。

かくて生は続く。

だから、

ある意味では

あなたは誰でもないのだ。

そしてまた別の意味では、

誰でもある。

ある意味では

あなたは虚ろであり、

また別の意味では、

充満している。

ある意味では

あなたは存在しない。

また別の意味では

すべてでもある。

それは、

あなたが

切り放されてはいないからだ。

分離が不安をもたらす。

もしあなたが不安なら、

苦悩しているなら、

それは、

あなたが

自分を切り放されていると

思っているということだ。

あなたは自ら

不必要な問題を作り出している。

そんな必要はない。

なぜなら

全体は生き続けるのだから。

全体は決して死なない。

死ぬことができない。

部分だけが死ぬ。

だがその死は、

本当は死ではない。

それは再誕だ。

あなたはここで死に、

別のところで生まれている。

“一即一切の世界を歩み、

 識別することなく融解し去れ。

 この覚醒に生きることが、

 不完了を思い煩わずに生きることだ。”

それなら、

どうして完成について

思い煩う必要があろう。

それもまた利己的な目標だ。

これは本当に

深く理解されるべきことだ。

なぜなら、

宗教的な人々でさえ

完全であろうとするからだ。

だが、

完全であろうという

あなたとは誰か。

全体しか

完全ではあり得ない。

あなたは決して

完全ではあり得ない。

どうして完全であり得よう。

覚者でさえ、

病気にならなければならない。

覚者も死ななければならない。

人は完全ではあり得ない。

完全という目標そのものが

エゴ・トリップだ。

全体はすでに完全だ。

それについて心配する必要はない。

その全体の中にあって、

あなたもまた完全なのだ。


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Osho - Neither This Nor That



posted by TARA at 16:07| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする