あなたは実際にその人と
恋に落ちるのではなく、
自分の空想の人と恋に
落ちるというのは
よく知られた事実だ。
ふたりが一緒にいないとき、
バルコニーから恋人を眺めるとき、
あるいは、
海岸でほんのしばらく会うとき、
映画館の中で互いに手を
取り合うとき、
あなたは感じ始める、
「私たちは、お互いのために
生まれてきている」と。
だが、誰ひとり相手のために
生まれてはいない。
あなたは次から次へと
自分の幻想を投影しつづける。
― 無意識に ―
そして、相手のまわりに
一種のオーラをつくる。
相手もあなたのまわりに
一種のオーラをつくる。
すべては美しく見える。
なぜなら、あなたがそれを
美しく<している>からだ。
現実を避け、
夢を見ているからだ。
そして、ふたりは
できるだけ相手の空想を
妨げないように努める。
だから、女性は男性が
望むように振る舞い、
男性は女性が望むように
振る舞っている。
だが、
それは長くて数分間、
あるいは数時間続けばいい方だ。
ひとたび結婚して
1日24時間ともに
暮らさなければならなくなったら、
自分ではない何かの振りを
続けることは
非常な重荷になる。
相手の男性または女性の空想を
満たすだけのために
どれだけ演技を
続けることができる?
遅かれ早かれ、
それは重荷になり、
そして復讐が始まる。
あなたは相手の男性が
自分のまわりにつくった空想を
すべて壊し始める。
その中に、
閉じ込められたくないからだ。
あなたは自由に、
ただ自分自身になりたい。
そして、
相手の状況も同じだ。
彼は自由に、
ただ自分自身になりたい。
そして、
それがすべての恋人たちの間 ―
すべての人間関係の間で
続いている闘争だ。
愛は自由を許す。
愛は相手がやりたいことは
何でも許す。
やりたいことは何でも ―
それがその人を至福に満たすなら
その人の自由だ。
あなたが相手を愛しているなら、
相手のプライバシーには
介入しない。
相手のプライバシーを
損なわないようにする。
相手の内的な存在に
愛の基本条件は
「私は、あるがままの相手を
受け容れる」
ということだ。
そして、
愛は決して自分の考えに基づいて
相手を変えようとはしない。
相手をあちこち刻んで、
自分の好みのサイズに
したりしない ―
ところが、
それは世界中で行われている。
あなたが愛しているなら
何の条件も付けるべきではない。
愛していないなら
条件を付けるあなたとは
いったい誰だろう?
どちらにしても明白だ。
愛しているなら
条件を付けるなど
問題外だ。
あなたは相手を
あるがままに愛する。
愛してないなら
それでも問題はない。
相手はあなたにとって誰でもない。
条件を付けることなどありえない。
相手は何でも
望むことをしてかまわない。
嫉妬が消滅し、
しかも愛が残るなら、
あなたは人生において、
持つに値する確固たるものを
手に入れたことになる。
喜びを分かち与えているときは
誰に対しても
牢獄をつくらない。
あなたはただ与える。
感謝やありがたいという気持ちさえ
相手から期待しない。
なぜなら、
あたは何も求めず、
感謝の気持ちさえ求めずに
与えているからだ。
あなたはあまりにも
満ち溢れているから与えている。
<与える>ほかには何もできない。
感謝している誰かがいるとしても、
自分の愛を受け容れてくれた人 ―
自分の贈り物を
受け取ってくれた人に、
その人はあなたの重荷を
下ろしてくれた。
あなたが降り注ぐのを許してくれた。
そして分かち与えれば与えるだけ
与えれば与えるだけ
あなたはさらに
多くを手に入れる。
だから、
与えることによって
けちにはならない。
「私は失うかもしれない」
というような新たな恐怖も
生まれない。
それどころか、
失えば失うほど、
以前は気づかなかった
源泉からの
新鮮な水が注ぎこむ。
存在全体がひとつであり、
― 樹木や動物たち、山や海 ―
最も小さな葉から
最も大きな星まで、
存在が面倒を見続けているなら、
あなたの面倒もみるだろう。
なぜ所有しようとする?
所有欲は、
ただひとつのことを示している。
あなたは存在を
信頼することができない、
ということだ。
あなたは自分のために、
別の保障、
別の安全を設けなければならない。
あなたは存在を
信頼することができない。
所有欲がないということは、
基本的に存在への信頼だ。
所有する必要はない。
なぜなら、すべてがすでに
私たちの手にあるからだ。
生の基本法則を
常に覚えておきなさい。
誰かを崇拝したら
いつの日かあなたはその人に
報復することになる。
執着と愛はひとつだという考えを
捨てなさい。
ふたつは敵同士だ。
すべての愛を
破壊してしまうのが執着だ。
愛を育み、養えば、
執着はおのずと
消えてゆく。