自分に奉仕し、
自分を楽しみ、
自分を愛し、
自分に敬意を払う人は、
必ずや他人にも敬意を払う。
なぜなら
そのような人はだんだんと、
他人の中にも
自分と同じ生命が
宿っていることに
気づくからだ。
自分を
愛すれば愛するほどに、
あなたは
他と分離してはいないことに
気づく。
融合が
体感出来るのは、
愛をおいて他にはない。
自分自身を
愛すれば愛するほどに、
あなたは
あらゆる定義が誤りであり、
あらゆる境界が
恣意的であることを
知るようになる。
自己の実存と交わり
溶け合うほどに、
自己の内面世界に
酔いしれるほどに。
自分が他と
分離した存在ではなく、
宇宙はひとつであることを
知るようになる。
だから
私達はそれを
宇宙(universe)と呼ぶ。
uniとは、
ひとつという意味だ。
Multiuniverse(複数の宇宙)とは
呼ばない。
それはひとつだ。
ひとつの全体性だ。
私達は互いに
部分を担っている。
孤立した人間は
1人としていない。
目には見えないが
無限のひとつの大陸に、
私達は属している。
無限性が私達の存在だ。
しかし
その体験が起こるのは、
自己を実現し始めた者達だけだ。
自分を愛するあまり
ただ1人、
目を閉じるだけで
至福の絶頂を感じることが
出来る者達だけに。
それが瞑想の何たるかだ。
瞑想とは、
独りであることに
無上の幸福を感じることだ。
だが
独りであることに
無上の幸福を感じると、
人はやがて
その恍惚感があまりに大きくて、
独りでは支え切れなくなる。
それはあなたから溢れ始める。
そしてそれが溢れ始める時、
愛に姿を変える。
瞑想は、
愛が起こることを可能にする。
瞑想を知らない人々は
決して愛を知ることはない。
知っている振りを
するかも知れないが、
それは不可能だ。
そういう人々は
知っている振りを
しているに過ぎない。
なぜなら、
彼らには何一つ
与えるものがないからだ。
溢れ出すものがないからだ。
愛とは分かち合いだ。
だが分かち合う前に、
まずそれを
手にしていなくてはならない!
まず初めに、
瞑想ありきだ。
瞑想こそが中心であり、
愛はその周辺だ。
瞑想こそが炎であり、
愛はその放射熱だ。
瞑想こそが花であり、
愛はその芳香だ。
私は瞑想を教える。
なぜなら、
あなたの実存に
愛が起こることを
可能にするのは
瞑想だけだからだ。
溢れ出すものがある時、
あたかも
瞑想から起こる影のごとく、
あなたは
他者と関係を持ち始め、
他者を思いやり始め、
生の中に
奉仕というものが
湧き上がる。
それは
強要されるべきものではない。
それは
義務であってはならない。
「義務」とは卑劣な言葉だ。
何かを義務として行う時、
それは強要され、
作為的で、
本物ではない。
それは偽りだから、
あなたを偽善者に仕立て上げる。
自分ひとりでは
支え切れずに
あなたが溢れ出す時、
全く異なった質が
あなたの実存から姿を現わす。
あなたは愛さずにはいられず、
分かち合わずにはいられない。
そして
分かち合いの素晴らしさは、
与えれば与えるほどに
自分も得るということだ。
愛の中に自分を空っぽにするほど、
人は満たされていると感じる。
OSHO - Come,Come,Yet Again Come