2022年12月30日

OSHOの講話 60


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他人を思いやる時、

最も基本的で

必要とされることは

自分自身を思いやることだ。

私は自己奉仕を教える。

そうすれば

その結果として、

全面的に

違ったヴィジョンが

姿を現わす。

自分に奉仕し、

自分を楽しみ、

自分を愛し、

自分に敬意を払う人は、

必ずや他人にも敬意を払う。

なぜなら

そのような人はだんだんと、

他人の中にも

自分と同じ生命が

宿っていることに

気づくからだ。

自分を

愛すれば愛するほどに、

あなたは

他と分離してはいないことに

気づく。

融合が

体感出来るのは、

愛をおいて他にはない。

自分自身を

愛すれば愛するほどに、

あなたは

あらゆる定義が誤りであり、

あらゆる境界が

恣意的であることを

知るようになる。

自己の実存と交わり

溶け合うほどに、

自己の内面世界に

酔いしれるほどに。

自分が他と

分離した存在ではなく、

宇宙はひとつであることを

知るようになる。


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だから

私達はそれを

宇宙(universe)と呼ぶ。

uniとは、

ひとつという意味だ。

Multiuniverse(複数の宇宙)とは

呼ばない。

それはひとつだ。

ひとつの全体性だ。

私達は互いに

部分を担っている。

孤立した人間は

1人としていない。

目には見えないが

無限のひとつの大陸に、

私達は属している。

無限性が私達の存在だ。

しかし

その体験が起こるのは、

自己を実現し始めた者達だけだ。

自分を愛するあまり

ただ1人、

目を閉じるだけで

至福の絶頂を感じることが

出来る者達だけに。

それが瞑想の何たるかだ。

瞑想とは、

独りであることに

無上の幸福を感じることだ。

だが

独りであることに

無上の幸福を感じると、

人はやがて

その恍惚感があまりに大きくて、

独りでは支え切れなくなる。

それはあなたから溢れ始める。

そしてそれが溢れ始める時、

愛に姿を変える。


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瞑想は、

愛が起こることを可能にする。

瞑想を知らない人々は

決して愛を知ることはない。

知っている振りを

するかも知れないが、

それは不可能だ。

そういう人々は

知っている振りを

しているに過ぎない。

なぜなら、

彼らには何一つ

与えるものがないからだ。

溢れ出すものがないからだ。


愛とは分かち合いだ。

だが分かち合う前に、

まずそれを

手にしていなくてはならない!

まず初めに、

瞑想ありきだ。

瞑想こそが中心であり、

愛はその周辺だ。

瞑想こそが炎であり、

愛はその放射熱だ。

瞑想こそが花であり、

愛はその芳香だ。

私は瞑想を教える。

なぜなら、

あなたの実存に

愛が起こることを

可能にするのは

瞑想だけだからだ。

溢れ出すものがある時、

あたかも

瞑想から起こる影のごとく、

あなたは

他者と関係を持ち始め、

他者を思いやり始め、

生の中に

奉仕というものが

湧き上がる。


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それは

強要されるべきものではない。

それは

義務であってはならない。

「義務」とは卑劣な言葉だ。

何かを義務として行う時、

それは強要され、

作為的で、

本物ではない。

それは偽りだから、

あなたを偽善者に仕立て上げる。

自分ひとりでは

支え切れずに

あなたが溢れ出す時、

全く異なった質が

あなたの実存から姿を現わす。

あなたは愛さずにはいられず、

分かち合わずにはいられない。

そして

分かち合いの素晴らしさは、

与えれば与えるほどに

自分も得るということだ。

愛の中に自分を空っぽにするほど、

人は満たされていると感じる。



OSHO - Come,Come,Yet Again Come



posted by TARA at 13:19| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月29日

OSHOの講話 59


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ある人と恋に落ちるとき、

あなたは実際にその人と

恋に落ちるのではなく、

自分の空想の人と恋に

落ちるというのは

よく知られた事実だ。


ふたりが一緒にいないとき、

バルコニーから恋人を眺めるとき、

あるいは、

海岸でほんのしばらく会うとき、

映画館の中で互いに手を

取り合うとき、

あなたは感じ始める、

「私たちは、お互いのために

生まれてきている」と。


だが、誰ひとり相手のために

生まれてはいない。

あなたは次から次へと

自分の幻想を投影しつづける。


― 無意識に ―


そして、相手のまわりに

一種のオーラをつくる。

相手もあなたのまわりに

一種のオーラをつくる。


すべては美しく見える。

なぜなら、あなたがそれを

美しく<している>からだ。


現実を避け、

夢を見ているからだ。

そして、ふたりは

できるだけ相手の空想を

妨げないように努める。

だから、女性は男性が

望むように振る舞い、

男性は女性が望むように

振る舞っている。


だが、

それは長くて数分間、

あるいは数時間続けばいい方だ。


ひとたび結婚して

1日24時間ともに

暮らさなければならなくなったら、

自分ではない何かの振りを

続けることは

非常な重荷になる。


相手の男性または女性の空想を

満たすだけのために

どれだけ演技を

続けることができる?


遅かれ早かれ、

それは重荷になり、

そして復讐が始まる。


あなたは相手の男性が

自分のまわりにつくった空想を

すべて壊し始める。

その中に、

閉じ込められたくないからだ。


あなたは自由に、

ただ自分自身になりたい。

そして、

相手の状況も同じだ。

彼は自由に、

ただ自分自身になりたい。

そして、

それがすべての恋人たちの間 ―

すべての人間関係の間で

続いている闘争だ。


愛は自由を許す。

愛は相手がやりたいことは

何でも許す。

やりたいことは何でも ―

それがその人を至福に満たすなら

その人の自由だ。

あなたが相手を愛しているなら、

相手のプライバシーには

介入しない。

相手のプライバシーを

損なわないようにする。

相手の内的な存在に

侵入しようとはしない。


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愛の基本条件は

「私は、あるがままの相手を

受け容れる」

ということだ。


そして、

愛は決して自分の考えに基づいて

相手を変えようとはしない。

相手をあちこち刻んで、

自分の好みのサイズに

したりしない ―

ところが、

それは世界中で行われている。

あなたが愛しているなら

何の条件も付けるべきではない。


愛していないなら

条件を付けるあなたとは

いったい誰だろう?


どちらにしても明白だ。

愛しているなら

条件を付けるなど

問題外だ。

あなたは相手を

あるがままに愛する。

愛してないなら

それでも問題はない。


相手はあなたにとって誰でもない。

条件を付けることなどありえない。

相手は何でも

望むことをしてかまわない。


嫉妬が消滅し、

しかも愛が残るなら、

あなたは人生において、

持つに値する確固たるものを

手に入れたことになる。


喜びを分かち与えているときは

誰に対しても

牢獄をつくらない。

あなたはただ与える。

感謝やありがたいという気持ちさえ

相手から期待しない。

なぜなら、

あたは何も求めず、

感謝の気持ちさえ求めずに

与えているからだ。

あなたはあまりにも

満ち溢れているから与えている。

<与える>ほかには何もできない。

感謝している誰かがいるとしても、

自分の愛を受け容れてくれた人 ―

自分の贈り物を

受け取ってくれた人に、

<あなた>の方が感謝する。

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その人はあなたの重荷を

下ろしてくれた。

あなたが降り注ぐのを許してくれた。

そして分かち与えれば与えるだけ

与えれば与えるだけ

あなたはさらに

多くを手に入れる。

だから、

与えることによって

けちにはならない。

「私は失うかもしれない」

というような新たな恐怖も

生まれない。

それどころか、

失えば失うほど、

以前は気づかなかった

源泉からの

新鮮な水が注ぎこむ。


存在全体がひとつであり、

― 樹木や動物たち、山や海 ―

最も小さな葉から

最も大きな星まで、

存在が面倒を見続けているなら、

あなたの面倒もみるだろう。

なぜ所有しようとする?

所有欲は、

ただひとつのことを示している。

あなたは存在を

信頼することができない、

ということだ。

あなたは自分のために、

別の保障、

別の安全を設けなければならない。

あなたは存在を

信頼することができない。

所有欲がないということは、

基本的に存在への信頼だ。

所有する必要はない。

なぜなら、すべてがすでに

私たちの手にあるからだ。


生の基本法則を

常に覚えておきなさい。

誰かを崇拝したら

いつの日かあなたはその人に

報復することになる。


執着と愛はひとつだという考えを

捨てなさい。

ふたつは敵同士だ。

すべての愛を

破壊してしまうのが執着だ。


愛を育み、養えば、

執着はおのずと

消えてゆく。



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posted by TARA at 12:28| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月24日

OSHOの講話 58


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美は

野生的なものだということ

覚えておきなさい。

美は決して文明化されない。

文明化したとたんに、

それは醜いものになってしまう。

美を文明化する方法はない。

美は自然の一部なのだから、

それは野生的なものであらざるをえない。

それは、

はぐくみ育てるものではない。

それは自然なものだ。

木々が美しく、

動物たちが美しく、

鳥たちが美しいのはそのためだ。

醜い鳥や醜い鹿を見つけることは不可能だ。

自然はおのずから美しい。

人間だけが醜くなる。

そしてジレンマは、

美しくなろうとするのは

人間だけだということだ。

その美しくなろうとする

まさにその努力の中に、

醜さが入り込む。

その美しくなりたいという

考えそのものが、

あなたは自分が醜いということを

受け容れているということを

示している。

その考えは

あなたの自己非難の中で

方向づけられている。

ひとつだけ確かなことがある――

美しくなろうとしている人は

自分が劣っていることを、

自分が醜いことを、

自分が無価値であることを

受け容れている。

今や彼はそれを隠そうとし、

それを包もうとし、

それを改善しようとしている。


人間は美しくなろうとする

唯一の動物であり、

そして人間は

醜い唯一の動物だ。

だから生において

第一に覚えておくべきことは、

自然――その野生の側面、

野生の海、野生の山々、

野生のジャングル――

に近づけば近づくほど、

あなたはより美しくなるということだ。


美しさの中には喜びがある。

そして美しさからは愛が生まれ、

美しさからは表現が、

創造性が生まれる。

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美しい人だけが創造的になれる。

なぜなら、

彼は自分自身を

受け容れているからだ。

彼は自分自身であることを喜び、

自分自身であることを

感謝しているので、

その喜びと感謝と受容性からは

創造性が自然に生まれてくる。

神は彼のために

多くのことをしてくれたから、

彼は神のために何かをしたい。

彼は絵を描いたり、

音楽を創ったり、

この世界をもう少しよくすることや、

人類の成長を助けることをしたい。


いずれにせよ、

彼は何かをしたいのであり、

それは神が彼のために

多くのことをしてくれたからだ。

まさにこの感謝の気持ちから

創造性が生まれる――

それが創造性のほんとうの源だ。


だが、

それはあなたが

自分自身を受け容れた時、

仮面の背後に隠れようとしない時、

カモフラージュを

つくり出そうとしない時に、

人格をつくり出すのではなく、

自らの本質が言うべきことを

言うのを許す時に

初めて可能になる。


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動物には

どのような人格もない。

私は飼い慣らされた動物のことを

言っているのではない。

彼らは人格を持とうとしている。

野生の犬には人格がなく、

ただ本質だけがあるが、

いったん犬が飼い慣らされると、

彼は政治的になり、

駆け引きをするようになる。

彼は人格を持つようになり、

もはや「個」ではなくなる。

彼は自分を偽るようになる。

あなたが彼を叩いても、

それでも彼は

あなたにしっぽを振りつづける――

これが人格だ。

ほんとうは

あなたをずたずたに

引き裂きたいのだが、

彼はあなたが主人であることを

知っているし、

自分の限界を知っている。

じきに夕食の時間になれば、

困ったことになることを知っている。

彼は叩かれ、

お仕置をされるだろう。

彼は自分に力がないことを

知っているから、

ペルソナを、

仮面をつくり出す。

彼は偽者になり、

ふりをするようになり、

文明化され、

教育されるようになる……

そして美しさを失う。


美しさは野生のものであり、

美しさは広大なものだ。

海は荒々しくて広大だ。

向こうの岸を見ることはできない。

美の向こう岸を見ることは

決してできない。

それを感じることはできるが、

それをつかむことはできない。

それを手中にすることはできない。

これを生きることはできるし、

それを楽しむことはできるし、

そのなかに飛び込むことはできるが、

決してその底を知ることはできない。

それは底知れないものであり、

測り知れないものだ。

美は海のようであり、広大、

とてつもなく広大だ。

美には海のような深みがあり、

深ければ深いほど、

それは神聖なものになる。

深みは神聖さを意味する。

深みは神聖さの次元だ。

文明化された人間は

表面で生きている。

彼は泳ぐ人であって、

潜る人ではない。

彼は周辺部で

どのように身を処してゆくかを

充分に知っている。

彼は周辺部には

慣れ親しんでいる――

そのやり方、

礼儀、エチケットなどに。

彼のすぐ下には

底知れない深みがあるが、

彼はそれに気がついていない。

美は深みから来る。

深くなればなるほど、

あなたはいっそう美しくなる。

そこでは美はこの世のものではない。

なぜなら、

深みは神聖さの次元だからだ。

深く行けば行くほど、

いっそうあなたの内奥の核からの

何かがわき出してくる。


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美はつくられるものではなく、

わき出るものだ。

つくられるものは表面にある。


先日、

ある男が友人にこう言うのを

私は読んだのだが、

「私は世界の避妊法を見つけたよ」

友人はたずねた、

「どんな?」

すると彼は言った、

「ただワイフに

 化粧を落せと言うのさ。

 メーキャップを落してしまったら、

 メイクラブする気なんて

 ちっとも起きないからね」

だから、

人びとはメーキャップと

メイクラブしているのではないだろうか? 

それがまさに起こっていることだ。

人びとは人格と愛を交わしている――

それはメーキャップであり、

あなたを包んでいる衣服にすぎない。

それはあなたではない。

だから愛さえも醜いもの、

表面的なもの、

月並みなものになり、

祈り、親密さの質をもたないものに、

永遠の質をもたないものになる。

だから私はあなた方に、

これら3つのことを覚えてほしい。


美は荒海のように野生的であり、

大海原のように広大であり――

向こう岸を見ることができないほどに――

そしてそれは、

深みから来るものであって、

けっして表面から来るものではない。

美に至ったなら、

人は至福に至り、

祝福に至る。

これが私の言う

「神への準備をする」

ということだ。

美しくありなさい。



Osho - God's Got A Thing About You

posted by TARA at 13:36| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする