2022年10月31日

OSHOの講話 55


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新しい人間は、

この狂気の過去と断絶する。

彼は、

戦争ではなく、愛を信じる。

彼は、

死ではなく、生を信じる。

彼は、

破壊的ではなく、創造的だ。

彼の科学や芸術は皆、

創造性に寄与する。

彼は、

原爆を創ったりしない。

彼は、

政治的にはならない。

何故なら、

政治は憎しみから来ているからだ。

政治の根は、

恐怖や憎しみや、破壊性だ。

新しい人間は、

政治的にはならない。

新しい人間は、

愛国的にはならず、

地球的になる。

彼は、

政治的な野心を持たない。

何故なら、

政治的な野心を持つことは

馬鹿げているからだ。

新しい人間はとても知性的になる。

知性の最初の兆候は、

地平線の上に上がってきている。

見る目を持っていたら、

それを見ることができる。

子供たちは

反逆するようになってきている。

教会の正統派でも、

国の正統派でも同じことだが、

世界中の若い人が、

あらゆる種類の正統派に反逆している、

そういう瞬間に

居合わせているといういことは、

とても祝福すべきことだ。

彼らは、

服従するつもりがない。

彼らは、

反抗しようと決めた訳でもない。

彼らは反抗するつもりもない。

彼らは瞑想をする。

そして、

従う感じがあればそれに従うし、

従わない感じがあれば、従わない。

彼らは、

決まったイデオロギーを持たない。

「私の国は、正しい」とか

「間違っている」とか、

彼らには、

そんな馬鹿げた発言はできない。

それは、

間違っているときもあれば、

正しいときもある。

正しいときは、

新しい人間はそれを支持するし、

間違っているときは・・・

それが自分の国かどうか、

問題ではない。

それは、

自分の家族かもしれない。

父かもしれないし、

母かもしれないが、

間違っているときは間違っているのだ。

新しい人間は、

先入観から生きるのではなく、

瞬間に対して

責任をとることによって生きる。

古い人間は奴隷だった。

新しい人間は自由だ。

新しい人間は、

彼の存在の核心において自由だ。

古い人間は深刻で、

仕事中毒だ。

新しい人間は、

遊びに満ちている。

ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)だ。

彼は、

人生を楽しむことが

よいことだと思っている。

彼は、

「義務」や

「犠牲」といった言葉を使わない。


彼は、

どんなものに対しても

犠牲になろうとは思わない。

彼は、

どんな祭壇の生け贄にもならない。

宗教の生け贄にならないし、

聖職者たちの生け贄にもならないし、

政治家の生け贄にもならない。

彼は、

誰に対しても

自分の生を搾取することを許さない。

「あなたの国が戦争しているんだから、

 行って死になさい」

と言われることは許さない。

彼が責任をとるのは、

人生に対してであり、

それ以外に対してではない。

彼は、

喜びに満ちて生きたい。

彼は、

神の贈り物の全てに歓喜していたい。

彼は、

祝祭のうちにいたい。

ハレルヤが、

彼の唯一のマントラだ。

イエスは言った。

「歓喜しなさい。

 歓喜しなさい。

 私は、

 歓喜しなさいとあなたに言う」

人は、

未だに歓喜していない。

人は、

深刻さという

途轍もない重荷の下に生きてきた。

国のために働きなさい。

家族のために働きなさい。

妻のために働きなさい。

子供たちのために働きなさい。

あなたの父母のために働きなさい。

ただ働き続けて、

いつか死んで

墓の中に消えていきなさい。

そうしたら、

他の人が働くことになる。

それは、

ずっと続いていく。

誰も、

人生を楽しむ時間を

持っていないように見える。

私は何も、

新しい人間が

働かないと言っているわけではない。

彼は働くだろうが、

それに中毒することはない。

彼は仕事中毒にはならない。

仕事は麻薬にはならない。

彼は、

いくらかのものが必要だから働く。

しかし彼は、

より多くのものを

ほしがって働き続けることはない。

彼は貯め続けることはしない。

彼は、

多くの銀行預金を持つことが

価値あることだとは思っていない。

また、

とても高い地位につくことが

価値あることだとも思っていない

それより、

彼は歌を歌いたい。

フルートを吹きたい。

ギターを弾きたい。

ダンスを踊りたい。

彼は、

有名になりたくない。

彼は、

生きたい。

誠実に生きたい。

彼は、

誰でもない人になる用意がある。

そして、

それは既に起きつつある。

最初の一条の光が、

もう機能しだしている。

それは、

まだ朝の靄の中に隠れているが、

あなたが探すなら

見つけることができる。

新しい子供たち、

新しい世代は、

全く違う世代だ。

だから世代間ギャップがある。

本当にそうだ。

これまでに、

こんなことはあった試しがなかった。


以前には決して

世代間ギャップはなかった。

人間の歴史を通して、

ギャップがあるのは今が初めてだ。

子供たちは親とは違う言葉を話す。

親たちは、

子供だちに成功してほしいので、

彼らを理解できない。

そして、

子供たちは言う、

「成功することにどんな意味があるの?

 歌を歌えないのに、

 ダンスを踊れないのに、

 楽しむことができないのに、

 愛することができないのに。

 成功することにどんな意味があるの?

 何故なの?

 成功することで何が起こるというの?

 全世界が僕の名前を知ったからと言って、

 それで何を得るというの?」と。

古い世代は、

お金に価値があると思っている。

そして、

お金を放棄した人たちでさえ

骨の髄まで

お金の価値を信じていることに、

あなたは驚くだろう。

彼らはお金の価値を信じている。

そうでなければ、

それを放棄する必要はない。

そして、

放棄を賞賛する人たちも

お金の価値を信じている。

あなたが

多くを放棄すればするほど、

あなたは偉大になる。

だとすると、

基準はお金だ。

お金が判断基準のままだ。

世間では、

お金を持つほどあなたは偉大だ。

僧の世界でも同じだ。

「どれだけあなたが放棄したか?」

あなたが放棄すればするほど、

あなたはより重要人物になる。

そこでも、

お金が重要なものであり続けている。

新しい世代は、

お金マニアにはならない。

だが覚えておきなさい。

私は何もお金に反対している訳ではない。

彼らもお金を使う。

過去には、

お金が人を使ってきた。

過去には、

人が物を所有していると思っていても、

実際は物が人を所有するというように、

人は無意識な生を生きてきた。

新しい人間は、

物を使うことができる。

新しい人間は、

お金を使う。

テクノロジーを使う。

しかし、

新しい人間は、

その主人であり続ける。

彼は、

生け贄にはならない、

道具にはならない。

私にとって、これが最大の出来事だ。


Osho - The Secret Of The Secrets



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2022年10月19日

OSHOの講話 54(53の続きです)


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瞑想の中へ入ってゆくことは、

どこでもないところへ入ってゆくことだ。

それが何の役に立つのだろう?

あなたの手の中に、

触知しうるものは何もない。

自分が成就したことを、

世間に示しうるものは何もない。

世間は、

あなたが何を成就したのかを、

決して知ることがない。

それは、

内なる体験にとどまる・・・

表現しえず、

言語を絶している。

「あなた」だけが知る、

あるいは、

その体験に行き着いた者たちだけが。

彼らはごく少数で、

きわめてまれだ。

世間全体があなたを笑うだろう。

彼らは、

あなたが罠に落ち、

催眠術にかけられ、

自分の生を無駄にしていると思う。

そして、

このように言う人々が

多数派を占めている・・・

彼らはつねに多数派を占めている。

彼らはキリストを笑った、

彼らは老子を笑った、

彼らは仏陀をあざ笑った。

彼らはマハヴィーラに反対した。

彼らは私に反対している。そして彼らは、

あなたにありとあらゆる復讐をする。

彼らは、

あなたが穏やかに生きることを許さない。

これは実に奇妙だ。

仏陀は、

けっして誰をもかき乱そうとしてはいなかった。

彼は、

弟子と共に穏やかに生きることができたはずだ。

が、人々はそれを許そうとしなかった。

イエスは何をしていただろう?

彼は、弟子と共に山に入り、

瞑想し、祈り、神と神の王国について

語ることができたはずだ。

彼が人々に

どんな害を与えていたと言うのだろう?

だが、

彼らは腹を立てていた、

彼らは激怒していた、

彼らはイエスに怒り狂っていた。

彼らはイエスを殺した。

なぜそのようなことが

何度も何度も起こるのだろう?

もしあなたが私と共に在れば、

世界全体が

あなたに反対することになる。

私と共に在ることは危険だ。

それはやさしい選択ではない・・・

あなたは、

世界を向こうにまわして

私を選んでいる。

世界は大きい。

多数派には、

あらゆる種類の権力がある。

そして、

彼らはあなたに反対し、

あなたを破壊したい・・・

あなたは彼らに何もしていないのに。

なぜ彼らはそんなにあわてふためくのだろう?

起こる微妙な現象がある。

誰かが神に向かって動きはじめる瞬間、

ありふれた俗世間に生きている人はみな恐れをなす。

なぜなら、

探求者の現存が、

突然彼らに、自分たちが生を無駄にしてい

ることを感じさせるからだ。

祈り、瞑想する者たちの顔に

突然浮かぶ喜び。

人々の生、

彼らの実存のなかに

突然、ダンス、変化、変容が・・・

その笑い、その愛・・・。

すると、

金や権力を追い求めている者たちは、

自分自身の努力に疑いを持つようになる。

自分たちは何をやっているのだろう?

これでいいのだろうか?と。

大きな疑いが彼らのなかに湧きあがる・・・。

彼らがひどく腹を立てるのはそのためだ。

あなたは彼らの生に疑いをひき起こす。

ところが彼らは、

自分たちの生が正しい生だと確信して生きていた、

その確信は絶対に揺るがなかった。

そこへ仏陀、

あるいはキリストのような人が現われ、

彼の臨在が彼らを揺り起こす。

彼らは二度と強い確信が持てない。

疑いが彼らの実存に入った。

彼らは、

その疑いゆえに怒っている。

さあ、

私のサニヤシンたちは誰にも何もしていない。

あなたは、

彼ら以上に穏やかで、

愛にあふれている人々を見出すことはできない。

彼らは誰にも何の害も及ぼしていない。

だが、

社会はますますあなたがたに

反対することになる。

そして、社会はあらゆる手段を使って

あなたがたを妨害しようとするだろう。

これは奇妙だ、

実に奇妙だ。が、

そこには微妙な論理がある・・・。

つい2,3日前、

マニーシャが質問した。

「Osho 、

 クチに移転するという計画は

 方便にすぎなかったのでしょうか?」

そうではなかった、

マニーシャ。

私はクチに移転したかった、

すべてが計画されていた。

だが、国の政策によって、

移転することはほとんど不可能になった。

私たちが移転できなかったのは、

モラルジ・デサイの悪意のせいだ。

だが、

私がどこへ行くか、

私の人々がどこへ行くか、

私が何をしているかに、

いったいなぜこの国の首相が

関与しなければならないのか?

私たちはいかなる政策も講じていない・・・

私の人々は

世界でもっとも非政治的な人々だ。

私たちは、

政治はまったく愚劣だと考えている。

だが、

まさにそれが原因だ。

疑いが起こる。

疑惑が起こる。

もし私が正しければ、

そのときには、

彼ら全員が間違っている。

そして、

もしこの考えが広がったら・・・。

それは火のように広がりうる。

真理には潜在能力がある・・・

たとえあなたが

それを磔(はりつけ)にしても、

それは広がる。

イエスは磔によって

破壊されはしなかった。

実のところ、

それは役に立った。

イエスは磔ゆえに、

世界における偉大な力になった。

真理を殺すことはできない。

だが、

遅らせることはできる。

人々はあなたがたに反対するだろう。

だから、

私と共に在るには勇気がいる。

そして、

私はあなたがたに

何ひとつ与えることができない・・・

「無」の他には何も。

一休はまさにそのことを言う。

「私はあなたにすべてを与えたい。

 だが、

 私たちブッダは『無』の他には

 何も持っていない」 

私は、

あなたがたに「無」しか

与えることができない・・・

それが私の贈り物だ。

そして、

あなたは自分のすべてを

賭けることになる。

あなたの生命、

あなたの社会的地位、

あなたの家族、

あなたの財力・・・

あなたはすべてを賭けることになる。

「無」のためにすべてを賭けるとは?

あなたは狂っているにちがいない。


Osho - Take It Easy





posted by TARA at 14:25| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

OSHOの講話 53 (54へ続く)


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アループ、

それには勇気、

あるいは狂気が必要だ。

そして、

あなたは狂っている。

私と共にいることが出来るのは、

狂った人々か、

それとも勇気ある人々のいずれかだ。

論理的に、

抜け目なく、

打算的に考える者たち、

彼らは、

私と共にいることが出来ない。

勇気もまた、

狂気の一面だ。

狂気は、

勇気の上をゆく。

が、

勇気もまた、

その一面だ。

勇気とは一体、

何なのか?

それは、

あなたのマインドが言い、

あなたの論理が言い、

あなたの正気が言っている、

全てのことをものともせずに、

それでも進むという意味だ。

あなたは危険を知っている、

あなたは危ういことを知っている。

それでも、

あなたは進む。

自分が知っている、

あらゆることにもかかわらず、

それでもあなたは、

ある体験の中に入ってゆくことを選ぶ・・・

それが勇気だ。

勇敢な人々もまた、

狂っている。

とはいえ狂気には、

勇気以上のものがある。

狂気は、

もっと活気にあふれている。

狂気には、

もっと多くの次元がある。

未知なるものに入るために、

計算ばかりしている人間が、

いかに私と共にいられよう?

彼はいつでも計算する。

ここには、

絶えず計算している人々がいる・・・

彼らの歩みは、

きわめて打算的だ。

が、

彼らは、

取り逃がし続けることになる。

彼らの歩みは、

充分躍動的ではありえない、

彼らの歩みは、

量子的跳躍ではありえない。

彼らは、

もくろむがゆえに、

自分たちの知識の境界内にとどまる・・・

彼らは、

既知なるものの内にとどまる。

未知なるものについて、

いかに計算できるだろう?

自分がまだ知らないものについて、

いかに考えることが出来るだろう?

あなたは、

自分の知識をすべて風に乗せ、

投げ捨てなければならない、

そうして初めて、

あなたはその中へと入ることが出来る。

だから、

ときとして、

愚者が行き着き、

いわゆる賢者が、

遅れをとることがある。

愛の中、

祈りの中、

瞑想の中、

神の中では、

一種の気違いじみた勇気が、

絶対に必要だ。

ひとたびあなたが、

その世界に入ってしまえば、

その時には、

勇気は不要だ。

それは、

最初に口火を切る地点だ。

ひとたびあなたが、

聖なるものの世界に入ってしまえば、

ひとたびあなたが、

その何かを味わってしまえば、

その時には、

アループは正しい・・・

それを捨てるのは、

気違いじみている、

それを捨てるには、

途方もない勇気がいる。

実際、

それを捨てるには、

たいへんな愚かさがいる。

そして、

世間に戻ることは不可能だ・・・

それは起こらない、

それは起こりえない。

聞いた話だが・・・

ある男が、

車がパンクしたことに気づいた。

そこで、彼は車を止めて、

タイヤの交換を始めた。

車は、

精神病院の前に止めてあった。

彼がタイヤを換えているところを、

ひとりの入院患者が堀越しに、

しげしげと見つめていた。

ドライバーはうっかりタイヤのねじを、

下水溝の鉄ぶたの中に落としてしまった。

どうすればいい?

しばらくすると、

入院患者が彼を呼んで、

残りの3つのタイヤのねじを

ひとつずつ使って、

4番目のタイヤを止めればいいと言った。

「すごく頭の切れる発想だ」

とドライバーは言った。

「またどうしてそんな君が、

 こんな壁の中に閉じ込められているんだい?」

「それも単純明快さ」

と入院患者は言った。

「俺がここにいるのは、

 馬鹿だからじゃない、

 狂っているからさ」

アループ、

あなたがここにいるのは、

狂っているからだ。

それに今となっては、

去ってゆくことは不可能だ。

その地点は、

すでに過ぎてしまった。

ある地点がある・・・

その地点の手前では、

人は、

逃げたければ逃げることが出来る。

ひとたび、

その地点を過ぎてしまうと、

あなたは戻れない。

そうなったら、

たとえ私から去っていっても、

あなたは、

私から離れることが出来ない。

そうなったら、

どこにいようと、

あなたは自分の内側に私を見出す。

そして、

どこで生きていようと、

あなたは私の風土の中に生きている。

交感(コミュニオン)、

魂の出会いの地点がやって来る。

ひとたびそれが起これば、

後戻りの出来ない地点が

やって来たことになる。

神について考えること、

神を探し求めること、

神に帰依し、

自らの生涯を捧げることですら、

勇気があり、

気違いじみている。


(54へ続く・・・)


Osho - Take It Easy


posted by TARA at 14:12| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする