●74
Love
Love
休息が至高への目的地(ゴール)であり
仕事はそこへ至る手段にすぎない
努力からの完全なる自由をともなう
全面的リラクゼーションこそ
至高の目的地なのだ
そうしたとき、生はひとつの戯れとなる
そしてそうなれば、努力すらも戯れとなる
あらゆる文明はそのような戯れから生まれた
詩、哲学、宗教は静養の果実だ
これはいままで、誰もが享受できるものではなかった
が、テクノロジーと科学が近い将来それを可能にするだろう
わたしがテクノロジーに賛成なのはそのためだ
労働に本質的な価値を見出す人々は
機械の利用に反対する
そうならざるをえない
わたしにとっては、労働にそうした本質的価値はない
反対に、わたしはそれを重荷と見る
仕事が休息のための前提条件であるかぎり
それは至福に満ちたものではありえない
仕事は休息状態から自然に流れ出すとき
それははじめて至福に満ちたものとなる
だから、わたしには休息を罪悪などとは呼べない
同様に、わたしは犠牲的精神というものも支持しない
わたしは誰かがほかの誰かのために生きるということなど望まないし
ある世代が他の世代のために自己を犠牲にすることなど望まない
そのような犠牲は結局、非常に高くつく
そうした犠牲をはらう人間は、非人間的な見返りを期待するものだ
父親たちが息子に不可能なことを要求するのはそのためだ
もしどの父親もその息子のためにいきたとしたら
誰が自分自身のためにいきられよう?
どの息子もいずれ父親になる可能性があるのだ
いいや、わたしはあらゆる人に自分自身のために生きてほしい
自分自身の幸福のため
自分自身の休息のために--
ひとりの父親が幸せであるとき
彼は息子のために多くをなすだろう
それも楽に--
なぜならば、それは彼の幸福から出てくるものだから
そうしたとき、そこには犠牲も放棄もありはしない
彼のなすことは
父親であるということのなかから自然に出てくるものだ
それも、幸せな父親であるということのなかから--
そうすれば、自分の息子に対する非人間的な期待などもちようがない
そして、期待からくる圧力がないとき
期待は応えられるものだ
息子が息子であることのなかから--
ひとことで言うならば
わたしはひとりひとりの人間に利己的であることを教える
利他的な教えの数々は
人間に自殺以外の何ものも教えてこなかった
そして、自殺的な人間というものは必ず他殺的でもある
不幸せな人間は
自分の悲嘆を他の人たちのなかにまき散らすのだ
わたしはもうひとつ、現在を未来のために犠牲にすることにも反対だ
在るそのものはつねに現在にあるのだから
もしそのなかをトータルに生きたならば
未来はそこから生まれ出てくる
そしてそれが来るとき、それもやはり現在なのだ
現在を未来のために犠牲にする習慣のある者に
未来はけっしてやって来ない
なぜならば、やってきたものはまたしても
まだやってこないもののために犠牲にされてしまうからだ
最後に、あなたは
わたしもまた他人のため、未来のために働くのはなぜかと問う
まず第一に、わたしははたらいたりしない
わたしのやることは
それが何であれ休息状態のなかから流れ出してくるものだ
私は泳がない
ただ浮かび漂うだけだ
誰ひとり、他の人ために何かするなどとうことはできない
しかし、わたしがわたしであることによって
他の人たちに何かが起こるとしたら
それはまた別だ
ただし、そこでもやはりやり手はわたしではない
.
未来に関して言うと
わたしにとっては現在がすべてだ
そして過去もまた現在に含まれる
そして過ぎ去った現在だ
そして未来も--
未来というのはまだ来ていない現在を言う
生はつねにいまここにある
だから、わたしは過去や未来に拘泥しない
そして、驚いたことに
わたしが過去や未来を気にかけなくなって以来
過去や未来の方がわたしを気にかけるようになったのだ!
みなさんによろしく
ア・カップ・オブ・ティ