愛とは希な開花だ。
愛は
ほんの時折にしか
起こらない。
何億もの人々が、
自分達は
恋人達だという
偽りの姿勢の中で生きている。
彼らは
自分達は愛し合っていると
信じている・・・
だが、それは
彼らの思い込みにすぎない。
愛とは希な開花・・
時折、それは起こる。
それが希なのは、
恐怖が無くなったときに
しか起こらないからだ。
それ以前には
決して起こらない。
愛は極めて深い内面的な
宗教的な人にしか
起こり得ない。
セックスは
誰にも可能なこと。
交友関係を持つことは
誰にも可能なこと。
だが、愛は違う。
あなたが
怖れていないとき、
そのときには
何ひとつ隠すものは無い。
そのときあなたは
自らを開くことができる。
そのときあなたは
あらゆる境界線を取り除き
あなたの内部に、
あなたの核にまで
浸透するよう
他者を招くことができる。
いいかね
もしあなたが、
自分の内部深くに浸透することを
誰かに許したら
相手もまたあなたが
彼の中に、
彼女の中に
入ってゆくことを許すだろう。
なぜなら、
あなたが他者を
自分の中に入ることを
許すときには
信頼が生まれるからだ。
あなたが怖れていないときには、
相手からもまた
恐怖は消えてゆく。
怖れることはない。
怖れを落として、
オープンでいてごらん。
他者の中心が
あなたの中心に出会うのを
許すがいい。
あなたはそれによって
再び生まれ変わる。
存在の新しい質が
創り出されるのだ。
存在のこの質は言う。
「神」は在ると。
「神」は論議では無く、
或る充足
充足を感じ取る
フィーリングのことだ。
あなた方も
観察したことがあるだろう。
不満を感じているときには
決まって
神を否定したくなる。
満足していないときには
あなたの存在全体が、
神などいない、
と言いたがる。
無神論というのは
論理から出てくるものではない。
それは不満から出てくるものだ。
あなたはそれに
理屈をつけるかもしれない。
それはまた別問題だ。
あなたは、
自分が不満だから
無神論者なのだとは言わないだろう。
あなたは、
神など存在しない、
私にはその証拠があるんだ、
というかもしれない。
しかし、
それは本当のことではない。
もしあなたが満足していたら、
突如としてあなたの存在が言い始める。
「神」はある!と・・・
不意にそう感じるのだ。
実在全体が神性になる・・
もし愛がそこにあったら、
あなたは生まれて初めて
実在は神性であり
あらゆるものは
その恵みであるという
実感をもつことだろう。
しかし、
これが起こるためには
多くのことが為される必要がある。
これが起こりうるためには、
多くが壊されなければならない。
あなたは、
自分の内部で
障害を生み出すようなもの全てを
壊していかなければならない。
愛をサダナ(修行)にしなさい。
とるに足らない
つまらぬものに
終わらせてはならない。
頭の中の考え事で
終わらせてはならない。
肉体的な満足感で
終わらせてはならない。
愛を内なる探求にしなさい。
そして、
相手を助けとし
友人としなさい。
もう少し説明しようかね。
もしあなたが人を愛したら、
少しずつ、
その人の外面の部分が消えてゆく。
その人のかたちが
消えてゆく・・
あなたは、
形のない内側のものに
もっともっと接するようになる。
形は次第に
ぼんやりとなり、
消えてゆく。
そして、
あなたがもっと深く
見入ったら
そのときには
この形のない個さえも
消え始め、溶け始める・・
と、
彼方なる世界が開かれる
そうなったら
相手のその個人は
単なる開口部、
扉だったことを知る。
愛する人を通じて、
あなたは神性を見出すのだ。
Osho - My Way : The Way Of The White Clouds