憧れられる側でしかなく
101回目のチャレンジへの
孤独さとプレッシャーは
まったく想像できません。
何かを始めるときや
さらに深めていきたい
いま自信をつけたい
その時浮かぶ
○○のためという理由が
もし身近な誰かを
納得させられない理由で躊躇しているとしたら
気にする必要はなくて
私の本来発揮したいものを支えてくれる
私に必要な原動力
「わからない道」を進んでいるそれがすでに
勇気なのだから。
あるとき生じ
その場だけでなく
風が葉をゆらすように
今も誰かの胸に響くように顕れている。。。
taraだけでなく
ブログを読んでくださってる方や
タロットで同じキーワードが顕れてるときは
力強い後押しになると思うので
またアップしていきます。
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新しい人間には、危険を冒す用意がある。
osho
生の非永遠性と共に生きるには、ガッツがいる。
何故なら、いつも何かが変化し、そのたびにあなたは、
自分を変えなければならないからだ。
人は一定のままでいたがる・・
その方が安全で、安心のように思えるのだ。
古い人間はそうやって生きて来た。
古い人間は、冒険を好まなかった。
その全ての関心は、安全性にあった。
新しい人間は、冒険心を持つことになる。
その関心は安全性にはなく、
関心はエクスタシーにある。
人は「私は知らないが、知ることに関心がある。
私にはどんな次元、
どんな冒険にも入って行く用意がある」
と言えるだけの能力と、勇気を持つことになる。
新しい人間には、危険を冒す用意がある。
古い人間は、非常にビジネスライクで、
危険を冒す用意は全くなかった。
危険とは呪いのことで、
安全こそが古い人間のゴールだったのだ。
だが安全と共に、あなたは死に始める。
生がより高く、より高く
豊かさを増して成長していくのは、
ヒマラヤの幾つもの頂きに届くのは、
冒険、絶えることのない冒険の中でのみだ。
新しい人間は、自然にあるがままの人で、
予測はつかず、新しさを賭け、
ワイルドなこと、型破りのことを
言ったりやったりする危険を、しばしば進んで冒す。
全てが可能で、何でもやってみることが出来る、
ということを信じている。
すでに知られているものには執着せず、
未知のものに、
知ることの出来ないものにさえ、
常に自分を開いたままでいる。
が、理想家ではないから、
どんな未来の為にも犠牲は払わない。
どんな抽象概念、理想、
イデオロギーの為にも、犠牲は払わない。
自分自身の体験を信頼し、
外にある全ての権威に対しては、
深遠なる不信を抱く。
新しい人間は、
自分自身の体験しか信頼しない。
自分で何かを知らない限り、
それを信頼したりはしない。
外にある権威が、
新しい人間の役に立つことなどあり得ない。
「私がそう言うのだから、
あなたは信じなければならない。
私達はいつも信じて来たのだから、
あなたも信じなければならない。
私達の祖先が信じたのだから、
あなたも信じなければならない。
ヴェーダやバイブルに書かれているのだから、
あなたは信じなければならない」
などとは、誰も言えないのだ。
新しい人間は、
そうした馬鹿げたこととは何の関わりもない。
新しい人間は、自分が知って初めて信じる。
これが本当の信頼・・
自分自身の可能性への、
自分自身の潜在能力への信頼だ。
新しい人間は、自分に敬意を払う。
外側にある権威を信じることは、
自分自身の存在に敬意を払わないことだ。
これこそ、私から見れば、
今日起こっているもっとも重要な現象だ。
新しい人間が存在し始めている。
最初の光が、すでに地平線上に現れている。
新しい人間を受け取る準備を整えるがいい。
用意しなさい。
今にもあなたの扉を
ノックしようとしている客を迎える、
主人になるがいい。
そして、それこそがサニヤスとは何かの全てだ。
準備・・新しい人間を受け取る準備を整えることだ。
新しい人間を受け取ることは、大いなる冒険になる。
それには危険も伴う。
というのも、古いものがそれを嫌うからだ。