2020年02月13日

OSHOの講話 35

taraの今朝の1枚引きのカードは

勇気.jpg


「勇気」


新しいことは怖い

それは多くの方にうなずいてもらえることでしょう。

しかし

100連勝している人がいるとしたら

その立場はなかなかなれないから

憧れられる側でしかなく


101回目のチャレンジへの

孤独さとプレッシャーは


まったく想像できません。


何かを始めるときや

さらに深めていきたい


いま自信をつけたい


その時浮かぶ

○○のためという理由が


もし身近な誰かを

納得させられない理由で躊躇しているとしたら

気にする必要はなくて

私の本来発揮したいものを支えてくれる

私に必要な原動力

「わからない道」を進んでいるそれがすでに

勇気なのだから。




OSHOの講話は

あるとき生じ

その場だけでなく

風が葉をゆらすように

今も誰かの胸に響くように顕れている。。。


taraだけでなく

ブログを読んでくださってる方や

タロットで同じキーワードが顕れてるときは

力強い後押しになると思うので

またアップしていきます。

ーーー

新しい人間には、危険を冒す用意がある。


osho


生の非永遠性と共に生きるには、ガッツがいる。

何故なら、いつも何かが変化し、そのたびにあなたは、

自分を変えなければならないからだ。

人は一定のままでいたがる・・

その方が安全で、安心のように思えるのだ。

古い人間はそうやって生きて来た。

古い人間は、冒険を好まなかった。

その全ての関心は、安全性にあった。

新しい人間は、冒険心を持つことになる。

その関心は安全性にはなく、

関心はエクスタシーにある。

人は「私は知らないが、知ることに関心がある。

私にはどんな次元、

どんな冒険にも入って行く用意がある」

と言えるだけの能力と、勇気を持つことになる。

新しい人間には、危険を冒す用意がある。

古い人間は、非常にビジネスライクで、

危険を冒す用意は全くなかった。

危険とは呪いのことで、

安全こそが古い人間のゴールだったのだ。

だが安全と共に、あなたは死に始める。

生がより高く、より高く

豊かさを増して成長していくのは、

ヒマラヤの幾つもの頂きに届くのは、

冒険、絶えることのない冒険の中でのみだ。

新しい人間は、自然にあるがままの人で、

予測はつかず、新しさを賭け、

ワイルドなこと、型破りのことを

言ったりやったりする危険を、しばしば進んで冒す。

全てが可能で、何でもやってみることが出来る、

ということを信じている。

すでに知られているものには執着せず、

未知のものに、

知ることの出来ないものにさえ、

常に自分を開いたままでいる。

が、理想家ではないから、

どんな未来の為にも犠牲は払わない。

どんな抽象概念、理想、

イデオロギーの為にも、犠牲は払わない。

自分自身の体験を信頼し、

外にある全ての権威に対しては、

深遠なる不信を抱く。

新しい人間は、

自分自身の体験しか信頼しない。

自分で何かを知らない限り、

それを信頼したりはしない。

外にある権威が、

新しい人間の役に立つことなどあり得ない。

「私がそう言うのだから、

あなたは信じなければならない。

私達はいつも信じて来たのだから、

あなたも信じなければならない。

私達の祖先が信じたのだから、

あなたも信じなければならない。

ヴェーダやバイブルに書かれているのだから、

あなたは信じなければならない」

などとは、誰も言えないのだ。

新しい人間は、

そうした馬鹿げたこととは何の関わりもない。

新しい人間は、自分が知って初めて信じる。

これが本当の信頼・・

自分自身の可能性への、

自分自身の潜在能力への信頼だ。


新しい人間は、自分に敬意を払う。

外側にある権威を信じることは、

自分自身の存在に敬意を払わないことだ。

これこそ、私から見れば、

今日起こっているもっとも重要な現象だ。


新しい人間が存在し始めている。

最初の光が、すでに地平線上に現れている。

新しい人間を受け取る準備を整えるがいい。

用意しなさい。

今にもあなたの扉を

ノックしようとしている客を迎える、

主人になるがいい。

そして、それこそがサニヤスとは何かの全てだ。

準備・・新しい人間を受け取る準備を整えることだ。

新しい人間を受け取ることは、大いなる冒険になる。

それには危険も伴う。

というのも、古いものがそれを嫌うからだ。

posted by TARA at 11:14| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月12日

OSHOの講話 34

とてもとても痛い講話です。。。

独りあれるかどうかを試されてる



ーーー


愛が執着となるのはそこに愛がないからだ。

そこにあるのはただの遊戯、

ただの自己欺瞞だ。

執着の方が本当で、愛はただの前戯だった。

だからあなたは恋に落ちるたび

遅かれ早かれ自分が

道具になっていることに気づく。

そして悲劇の全てが始まる。

その仕組みは何か。

なぜそういうことになるのか。


数日前のことだが、

ある男が私の所へやってきた。

彼は大きなとがめを感じていた。

彼は言った、

「私はある女性を愛していました。

すごく愛していました。

彼女の死んだ日、

私はひどく泣き悲しみました。

ところが突然、

自分の中にある種の自由を

感じました。

まるで重荷がなくなったかのような…。

私はほっと息をつきました。

まるで自分が自由になったかのように」


その時、

彼は自分の感情の

第2の層に気づいたのだ。

外側では泣き哀しみ、口では

「彼女なしでは生きていけない。

もうおしまいだ。

もう死んだも同然だ」と言いながら、

深いところでは

「なんだかずいぶん気持ちが軽い…

自由になったような気がする」

と言っていた。


第三の層は、

後ろめたさを感じ始めていた。

その層は言う、

「一体自分は何をしているんだろう」

彼によると遺体は自分の

すぐ前に横たわっていた。

そして彼は大きな咎めを感じた。

彼は言った、

「どうしたらいいだろう。

私の心に何が起こったのだろう。

私はこんなにも早々にも

裏切ってしまったのだろうか」


別に何も起こっていない。

別に裏切りではない。

愛というものは執着になると、

重荷なり、

束縛になる。

だがなぜ愛が執着となるのか。

最初に理解すべき点はここだ。

もし愛が執着となったら、

その愛は単なる幻想となる。

あなたは単に自分自身と戯れ、

「これは愛だ」

と考えているだけだ。


だが実際のところ、

あなたが必要としていたのは

執着だ。

そしてもっと深く

見てみればわかるだろうが、

あなたはまた奴隷にも

なりたがっていた。

そこには自由に対する

微妙な恐怖がある。

誰もが奴隷に

なりたいと思っている。

もちろん誰もが自由を語る。

だか、

本当に自由になろうという

勇気を持ち合わせている人間は

誰もいない。

本当に自由になると、

あなたは「ひとり」だ。

「ひとり」になる勇気があって

初めてあなたは自由になれる。


だが誰もひとりに

なる勇気がない。

皆誰かを必要としている。

なぜ誰かを必要とするのか。

あなたは孤独を恐れている。

あなたは自分自身に

飽き飽きしている。

だから孤独になると

全てが無意味に

思われてくる。

ところが誰かと一緒にいると

あなたは忙しくなる。

そして自分でいろいろ

意味を作り出す。

あなたは

自分自身のために

生きられない。

だから他の誰かのために

生き始める。

そしてその

「他の誰か」も

また同じだ。

彼あるいは彼女も

ひとりでは生きられない。

それであり誰かを探している。 

互いに孤独を恐れる。

ふたりの人間同士が

一緒になり、

遊戯を始める…

愛の遊戯を。


だが

奥底で二人が

求めているのは

執着であり、

しがらみであり、

束縛だ。

だから遅かれ早かれ、

二人の望むことが起こる。


それはこの世で

最も大きな

不幸の一つだ。

あなたの望むことは

何であれ、

やがて起こる。

遅かれ早かれ、

あなたは

きっとそれを得る。

そして前戯は消え失せる…

役目が終了すると

消え失せる。

夫婦になって

互いの奴隷になる時、

結婚が起こる時、

それは消え失せる。

愛はただの幻想だった。

単にその中で二人の人間が

互いの奴隷になっていたと

いうだけの話だ。

面と向かって、

隷属を頼みにいくわけには

いかない。

それではあまりに侮辱的だ。

他人に向かって、

「私の奴隷になれ」

と言うわけには

いかない。

それでは反発を食らう。

また

「あなたの奴隷になりたい」

というわけにもいかない。

だからこんな風に言う、

「あなたなしでは

生きられない」

だがその意味は同じだ。

そしてこの真の欲求が

成就されると、

愛は消え失せる。

するとあなたは

束縛や隷属を感じる。

それで自由になろうと

もがきだす。

だいたいこれは

心の逆説、パラドックスだ。

自分の持っているものに、

飽きてしまい、

持っていないものを

欲しがる。

だから一人でいると

隷属や束縛を欲しがる。

だが、

束縛されていると

自由を欲しがる。


実際、

自由に憧れるのは、

奴隷だけであり、

自由人は

再び奴隷になろうとする。


心は振り子のようなもので

極端から極端へと

動き続ける。


Osho

posted by TARA at 01:55| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月06日

OSHOの講話 33

ひさびさに、OSHOの講話のシェアを


【全面的に生きれば、生きるほど

それだけ生きる能力は高くなる】


愛すれば堕落する。

愛さなければ愛したいという

深い衝動を感じ続ける。

それは自然のそのものから

やってきている。

何ひとつ悪いことがない。

それは飢えや乾きと

同じように自然なものだ。

そして 飢えや乾きと

同じように美しいものだ。

だが、あなた方の聖者は

人をまさにプラスチック人間に…

飢えもなければ渇きもなく、

愛もない人間に…したい。

それでやっとあなたは完全なのだ。


人のメカニズムが

全てプラスチックでできていれば、

それは簡単だろう。

そして科学者はその線に沿って

考えている…

メカニズム全部を

プラスチックで作る事を。


そうなれば人には

どんな食料もいらない。

どんな愛もいらない。

人は何も必要としない。

人は機械になる。

ロボットだ。

時々どこか具合が悪くなれば

修理工場に送ればいい。

毎日燃料補給スタンドに

出かけて行って、

そこで石油か何か

入れてもらえれば

万事終了だ。

そうなれば、

人間は完全主義者だ。

それで完璧だ。


だが、

あるがままの「生」なると

これは微妙だ。

それはプラスチックではない。

それは極めて微妙なものだ。

人の中にあるのは電線ではない。

人が持っているのは神経だ。


そのバランスはいつも動いている。

何ひとつ確かなことはない。

あらゆるものが

他のものの中に

溶け込み、融合し続けている。


理解の人は悩まない。

不完全を苦にしない。

彼は完全という観点からは

全く考えない。

理解の人は、その瞬間を

可能な限り全体的に

可能な限り全面的に

生きるだけだ。


すると、

全面的に生きれば、生きるほど

それだけ生きる能力は高くなる。

一日が来る。

彼はそれをただ生きる。

どんな理想も押し付けず、

どんな観念も抱かず、

自分の「生」にどんな規則も

統制も設けず、

ただ生きる。


彼はただ生き、楽しみ、喜ぶだけだ。

この信を生きることが『不二』への道


そして、これこそが信だ…、

 『不二』こそ『信心』と

 同じものだからだ。

そして胸の内深く、

信頼する心があれば、

「不二」はあなたの

目の前にある。

内側深くに、

疑いがあれば、

そこに生まれるのは、

理論や思考や言葉や

哲学や教義だろう。

そして、

眼前のことには、

全く盲目になるだろう。

あなたは近くを見ることができず、

遠くを考えることしかできないだろう。


内なる信頼と外なる実在。


内なる信頼と外なる真理。


信頼と真理が出会う。


他の出会いはない。

「『不二』こそ『信心』と

 同じものだからだ」。


posted by TARA at 23:00| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする