2017年02月17日

OSHOの講話27

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。

まだまだだ・・・っておもったら

否定的になってしまうから

今がその道のりだっておもおう♪

いつも

今できることしかないんだから。。。

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あらゆることを


創造的にしなさい。


最悪から最良を


創り出しなさい


それが、


私が“アート”と


呼ぶものだ。


そして


もし人が


あらゆる瞬間を


あらゆる局面を


ひとつの美、


ひとつの愛、


ひとつの喜びにしながら


その生涯を生きたなら、


当然その人の死は、


一生涯の努力の


究極の頂点となるだろう。



最後の仕上げ


彼の死は


毎日誰にでも


平凡に


起こっているような、


極悪なものには


ならない。


もし、


死が極悪だったら


それは


あなたの全生涯が


無駄にされてきた


という意味だ。


死は安らかな受容、


未知への


すばらしい入場


古い友人と


古い世界への


喜びに満ちた


別れであるべだ。



そこには


いかなる悲劇も


あるべきではない。


ひとりの禅マスター、


臨済が死にかけていた


何千もの弟子たちが


最後の説法を


聴きに集まっていた。


だが


臨済は


ただ横たわっていた


うれしそうに


ほほえみながら、


ひとことも話さずに。


死にかけているのに、


彼がひとことも


話さないのを見て


ある人がうながした


古い友人であり、


独り立ちした


マスターである臨済に


彼は臨済の


弟子ではなかった。


それだから


彼はこう言うことができた


「臨済、


 あなたは


 最後のことばを


 いわなければならないのを


 忘れたのか?


 私はいつも…


 あなたは


 もの覚えがよくないと


 言ってきた。


 あなたは、


  死にかけているんだよ


 忘れたのか?」



臨済は言った


『まぁ聴きなさい』


そして


屋根の上では


二匹のリスが走りまわり


“キーキー”鳴いていた。


彼は言った


『なんと美しい』


そして


彼は死んだ。



彼が


聴きなさいと


言ったとき


しばらくのあいだ


そこには


完全な沈黙があった。


誰もが彼は何か


偉大なことを


言おうと


しているのだと思った。


だが


屋根の上に


じゃれ合い走りまわる


二匹のリスが


いるだけだった…。


それから


彼はほほえみ


そして死んだ…。


しかし


彼は最後のメッセージを


与えていたのだ


ものごとに大小や、


ささいなことと、


重要なことといった


区別をつけてはいけない


と、


あらゆることが重要だ。


臨済の死は


屋根の上で走りまわる


二匹のリスと同じように


重要だ。


そこに違いはない。


存在において


それはすべて同じだ。


それが


彼の哲学のすべて、


彼の全生涯の教えだった


偉大なものなど何もないし、


つまらないものもない。


すべてはあなた次第、


そこから


あなたが


何を生み出すかに


かかっている。



瞑想から


はじめなさい。


そうすれば、


ものごとは


あなたのなかで


育ちつづける


沈黙が、


穏やかさが、


至福が、


感受性が。


そして


瞑想によって


生じたものなら


何であれ、


生に取り入れるように


しなさい。


それを


分かち合いなさい。


というのも


分かち合われるものは


すべて、


早く 育つからだ。


そして、


死という地点に


到達したとき。



あなたはそこに


死がないことを知る。


あなたは


さよならを


言うことができる。


どのような


悲しみの涙も必要ない


喜びの涙は


あるかもしれないが、


悲しみの涙ではない。


だがあなたは


無垢であることから


はじめなければならない。


だから


まずはじめに


自分がもち歩いている


がらくたを


すべて捨てなさい。


そして、


誰もが実にたくさんの


がらくたを


もち歩いている


それでいて人は、


何のために?


といぶかる。


それはただたんに、


人々が


あなたに


これらは


すばらしい考えだ、


根本原理だ、


と言いつづけてきている


からにすぎない。


あなたは


自分自身に対して


賢明であったことがない。


自分自身に対して


賢明でありなさい。


生は非常に単純だ。


それは


喜びに満ちた踊りだ。


そして


地球全体は


喜びと踊りで


満たされうる。


しかし、


誰も生を


楽しむべきではない、


誰も


ほほえむべきではない、


誰も笑うべきではない、


生は罪だ


生は罰だと


わがもの顔に


主張する人々がいる。


生は罰だと


絶え間なく


言われているような


環境で、


どうやって


楽しむことが


できるだろう?


あなたは


悪いことをしたので


苦しむのだ、


生はあなたが


苦しむために


投げ込まれた監獄だ、


と絶え間なく


言われているような


環境で。



私はあなたに、


生は監獄ではない、


それは罰ではない、


と言う。



生は報酬だ。


そして


その報酬は


それを受ける価値の


ある人々、


それに


値する人々にのみ


与えられる。



さぁ、


“楽しむ”のは


あなたの権利だ。


もし、


あなたが


“たのしま”なければ、


それが罪だ。


もし、


あなたが生を


美しくしないなら、


ただそれを


見つけたままで


放っておくなら、


存在に反することになる。


だめだ…


生をもう少し


楽しく、


もう少し


美しく


もう少し


香り豊かにしなさい。



Osho - Beyond Enlightenment





posted by TARA at 23:57| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする