2016年06月07日

OSHOの講話 16

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。

6/5皐月新月、芒種を迎え
6/6は、2016の末尾をあわせてミロクの日だったとか。

6/7の今日は金星の開き、
太陽を真ん中に、地球と金星が一直線に並ぶタイミング。
開きと結びのタイミングは、
一筆書きの星になるのだそう。

160607 ビーナストランジット.jpg

数日前の6/3に太陽の黒点が0になり、静かに。。。

大いなる宇宙の流れの中に織りなされている
ハーモニーを観じながら、
梅雨も感じながら・・・

我が家は田植え継続中。
今日は1枚がんばりましたぁ。

160607 水地3枚目 (1).JPG

今日のOSHOの講話は愛テーマオンパレード。
その中でも好きなものをアップします。

ーーー

問い:

「何故愛は、霊的な成長においてそんなに大切なのですか?」



OSHO

愛と気づきは、両極の最高の高みだ。


ちょうど、男と女、生と死のように、


暗闇と光、夏と冬のように、


外と中、陰と陽のように、


身体と魂、創造と創造者のようにだ。


愛と気づきは、両極の高みで、


変容が起こる最後の極みだ。


愛には2人が必要だ。


それは関係性だ。


それは外に向かう。外に向かうエネルギーだ。


相手が、愛される人がいる。


相手が、あなた自身より重要になる


あなたの喜びは、相手の中にある。


もし相手が幸せなら、あなたも幸せだ。


あなたは相手の一部になる。


ある種の依存関係がある。


そのように、相手が必要だ。


相手なしでは、あなたは寂しさを感じる。


気づきは、完全に独りになって、


注意深く自分自身とともに、 ただあることだ。


それは関係性ではないので、他者は全く必要ない。


それは外側に向かうことではない。


それは内側に向かうことだ。


愛はあなたの存在から出てくる光の動きだ。


気づきは、それとは反対の動きで、


源へ再度戻る光の反対方向の動き、


源へ帰る動きだ。


これはイエスが悔い改めと呼ぶものだ。


--- これは言葉どおりの悔い改めるという意味ではなく、


源へ帰るという意味だ。


パタンジャリはこれをプラチャーラと、家に戻ってくることと呼ぶ。


マハヴィーラはこれをプラチクラマンと、自分自身に帰ることと呼ぶ。


環が完結したという意味だ。


黄金の華の秘密は、あなたのエネルギーの逆向きの動きに基づいている。


完璧にそれに基づいている。


しかし、この逆向きの動きが可能なのは、


あなたが外に向かう動きをしていたときだけだ。


あなたは愛の中に入っていかなければならない。


あなたは、自分自身にたどり着くために、関係性を持つ必要がある。


これは逆説的に見える。


再び子供になるためには、子供は世間に毒される必要がある。


無垢は、再び本当の無垢になるためには、


ずる賢さのあらゆる騒ぎに入っていく必要がある。


子供は無垢だが、それは無知によるものだ。


聖人も無垢だが、それは無知によるものではなく、


経験によるもの、成熟によるものだ。


彼は再び無垢になるが、その再びなることが非常な重要性を持っている。


--- それ以上、彼の無垢を乱すことはできない。


子供の無垢は乱されざるを得ない。


全てのアダムはエデンの園を、無垢の世界を去る必要がある。


全てのアダムは、世間に、その泥沼に出ていく必要がある。


何故なら、そうして初めてあなたは成長し、


成熟することができるからだ。


そこでだけ、あなたは学び、


そこでだけ、対比することによって無垢の美しさを見、


そこでだけ、あなたは無垢の輝きを理解する。


あなたが無垢の美しさを学んだ日には、


あなたは、気づきを持つようになっている。


あなたは、家に帰ってきている。


もしアダムが天国を去らなかったら、彼はキリストにはなれない。


彼は子供のままだ。


アダムは、外側への動きを意味している。


キリストは、内側への動きを意味している。


アダムは愛を意味し、キリストは気づきを意味している。


環は完結した。


アダムとキリストの違いは、その方向だけだ。


アダムは外側に向かい、その同じ人が反対に向きを変え内側に向いたら、


彼はキリストになる。


アダムは潜在的なキリストで、キリストはアダムが実現されたものだ。


愛はとても本質的なものだ。


あなたは、自分を得るために自分を見失う必要がある。


愛は、自分を完全に失うことを唯一可能にするものだ。


あなたが完全に失われたとき、


あなたは自分がしたことを思い出すことができる。


それはいつも大海に住んでいる魚のようなものだ。


彼は決して大海に気づかないし、その祝福に気づくことはない。


彼は網に捕まる必要があり、


漁師が彼を拾い上げ、砂浜に放り出す必要がある。


その砂浜で、暑い日の下で、


彼は初めて思い出す。


彼は何年も大海に住んできたのに、大海には気づかなかった。


全く気づかなかった。


今や渇きが、暑さが、大海を意識させる。


大海に帰りたいという大きな渇望が起こる。


それが大海にジャンプして戻るためのあらゆる努力を作りだす。


それが探求者の状態だ。


大元の源へ帰りたいという渇きだ。


そしてもしこの魚が大海に再び戻ることができたとしたら、


あなたはその祝祭がどれ程のものか想像できるだろうか?


その魚は大海にずっと住んできて何も祝祭はなかったというのに。


今や祝祭の可能性がある。


今はとてもうれしく、祝福されていると感じる。


霊的な成長のためには、愛は必要だ。


更に愛は鏡として働くので、それ以上のものだ。


誰かあなたを愛する人の目の中に、自分の顔を見たことがなかったら、


あなたが自分自身を知ることはとても難しい。


ちょうど、自分の肉体的な顔を見るのに鏡を見る必要があるように、


自分の霊的な顔を見るためには、そのような鏡が必要だ。


愛は、霊的な鏡だ。


それはあなたを育てる。


それはあなたを統合する。


それはあなたが内側の旅する準備を整える。



posted by TARA at 15:14| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする