2016年03月29日

コズミックダイアリー 神聖暦 ツォルキンの紹介

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。

小田にもあちこちで桜が開いてきています。

まだ3月末だから今年は早いのかな~


TARAとして、タロット読みより前に始めていたこと、

13の月の暦 コズミック・ダイアリーの講師です。

体も心もスピリットも整えてくれる暦

それが本当の暦。

そんな暦が存在するとしたら?

ほとんどの人が使っている、現在の西暦以外にも

地球暦、月暦、ほか自然に即したものがあります。

「コズミック・ダイアリー」は自然とスピリットの両方

「13の月」と「ツォルキン」が

セットになっているのです~。

そのツォルキンは、260日サイクルで

日々その日のエネルギーにあふれていて、

それを観じていきませんか?

一言で説明すると、そんな暦。

目に見えないものを観じていくもの。

タロット読みにも、

イマジネーションとインスピレーションをもらっています。

日々のツォルキンの紹介を

TARAの読み替えをセットに

ブログでも発信していくことにしました。

初耳の方には

何のことだかわかりにくいかもしれませんが^0^;

気になる方は、

よかったらこちらもご覧ください。

「ツォルキンを観じて」

ちなみに今日は

KIN100 黄色い太陽の太陽の日

今日のKIN.png

どんな日エネルギーの日なのか?

何がシンクロしているのか?

ぜひ観じてみてくださいね~
posted by TARA at 12:11| Comment(0) | ご紹介したいこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

OSHOの講話⑬ 遊び心

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。

今日はTARAの出店のhomeであり、
生き方のhomeともいうべき場所
菜月自然農園さんで開催される
「丘の上の日曜市」さんに出店してきました。

やっとタイミングがあい、ひさびさの出店でしたが、
お天気も良くて、すがすがしい出店。
何と丸8年も毎月第4日曜日に
欠かさず市を開催されているという継続力。
そこに出店しているなんて
今は、普通にスタメンの用に出店していますが^m^
6年前の私からしたら奇跡です。
振り返った時の奇跡は
どこかで必ず最初の一歩があったから。

でもそれをたどっていったら
一体どこまでさかのぼるのでしょうね。。。♡


今日もいろんな方のタロット読みをさせていただき、
しかも他の出店のからの物々交換で、
美味しくて身体にもやさしいスイーツたちがいっぱい。
なんという循環なのでしょう◎

誰でも、遊びに来れるオープンな場所ですので
ぜひいつか遊びに来てくださいね♪

帰宅後読んだ講話が、
今日のリーディングとシンクロしているので、
今日のうちにアップしたくて、またまた講話ですが、
どうぞ。

ーーー


もしあなたがここで自分の遊び心を許せなかったら、
世界中どこに行ってもそれはできないだろう。


遊び心を全面的に許しなさい。
それを統制から出してやりなさい。
 
そしていったん、
あなたの子どもがほんとうに生き生きとして
あなたといっしょに踊りはじめたら、
それは
あなたの生の香りそのものを変えることになる。

それはあなたにユーモアのセンスを、
素晴らしい笑いを与える。
そしてあなたの頭でっかちを壊してくれる。
それは、あなたをハートの人間にするだろう。


頭のなかに住んでいる人間は、
まったく生きてはいない。


ハートに生きる人間だけが、
そして
頭には理解できない歌を歌う者、
外側の状況とはどう見てもつり合わない
ダンスを踊る者……


自分の豊かさから、 自分があふれているからこそ
踊る者だけが、生きているのだ。
 
あなたには歌い、
そして叫びたいほどのエネルギーがある……
だったら、そうしなさい!

そうしたら、あなたはもっと生き生きする。


それはあなたに、
生のなんたるかを味わう機会を与える。
深刻な人間は、死ぬ前から死んでいる。
死ぬずっと前に、彼はほとんど死体になっている。



生はあまりにも貴重な機会だ。
深刻さの中にそれを失うべきではない。


深刻さは、墓場用にとっておくといい。
深刻さは、墓場の中に倒れ込ませたらいい。


最後の審判の日を待たせて、深刻にさせておけばいい。

だが墓場に行く前に死体になることはない。



孔子のことを思い出した。


孔子の弟子のひとりが、
無数の人びとが問うた典型的な質問をした。


「死んだ後で起こることについて、

なにか言っていただけますか?」



孔子は、
「そういうことは 死んで墓場に行ってから
 じっくり考えたらいい。
 今はまず生きなさい!」
と言った。



生きるべきときがあり、
そして死ぬべきときがある。


それをごっちゃにしてはいけない。


さもなければ
両方とも取り逃がす。
 
今はまず、
全身全霊で強烈に生きなさい。
そして死ぬときが来たら、
全身全霊で死ぬといい。
半身で死んではいけない。


片目だけ死んで、
もう片目で辺りを見つづけていたり、
片手が死んで、
もう片手で真理を探しつづけていたりしてはいけない。


死ぬときは全面的に死になさい……


そして死とはなにかを
じっくり考えたらいい。


だが今はまず、
ずっと先のことを考えて
時間を潰すのはやめなさい。


この瞬間を生きるのだ。

子どもは強烈に、また全面的に
生きることを知っている。


そして恐れることなく、
統制から抜け出すことを――。



この寺院の中ではいかなる禁止もなく、
あなたは自分自身であることを許されている。


私は世界中にこれが起こってほしい。
これはほんの始まりにすぎない。


ここで、
一瞬一瞬を全身全霊で、
強烈に、喜びに満ちて、


そして


遊び心をもって生きることを、
始めなさい――
 
そうすれば、なにひとつ
羽目が外れたりはしないことが分かるだろう。


あなたの聡明さはより研ぎすまされ、
あなたはより若くなり、
愛がより深まることが分かるはずだ。
 
そして世間に出たら、
あなたがどこへ行こうと、
生を、遊び心を、喜びを、
できるだけ遠くまで広げなさい――


この地球の隅から隅まで。

もし全世界が笑い、
楽しみ、遊びはじめたら、
大いなる革命が起こる。


戦争は、
深刻な人びとがつくり出すものだ。


殺人は、
深刻な人びとが犯すものだ。


自殺は、
深刻な人びとがするものだ。


精神病院は、
深刻な人びとでいっぱいになっている。


深刻さが人間に
どれほどの害をなしたかを見てとったら、


あなたは自分の深刻さから
飛び出すはずだ。


そしてあなたは、
あなたの中で遊ぼうと、
歌って踊ろうと待ちかまえている、
自分の子どもを許すだろう。



私の宗教のすべては、
遊び心で成り立っている。


この存在は、
私たちの故郷だ。


これらの樹々、
そして星々は、
私たちの兄弟であり、姉妹だ。


これらの海や川や山は、
私たちの友人だ。


この途方もなく親しげな宇宙のなかで、
あなたたちは石仏のように坐っている――


私は、
石仏になることは説かない。
私は、
あなたたちに踊るブッダになってほしい。



仏陀に従う者たちには
気に入らないだろうが、
しかし私は、
誰がなにを考えようとかまわない。
私が気にするのは真理だけだ。


もし真理が踊り方を知らないとしたら、
それは片輪になっている。


もしブッダが
笑う能力をもたないとしたらなにかが欠けている。


もしブッダが
子どもたちの仲間になっていっしょに遊べないとしたら、
その人はブッダフッドの近くには来ていても、
まだ全面的に覚醒してはいない。
なにかが眠っている。



日本には9枚つづきの絵があって、
その絵には途方もなく深い意味がある。


1枚目の絵のなかで、
ひとりの男が自分の牛を見失う。
彼は、あたりを探し回っている――
そこは木立に囲まれた深い森だ……
だが牛は影も形もない。
 
2枚目で
彼は牛の足跡を見つける。
 
3枚目では
牛はどうやら木の蔭に姿を隠しているらしい。
牛の尻の部分だけが見えている。
 
4枚目で、
彼はほとんど牛に手が届きそうになる。
そして牛は全身をあらわしている。
 
5枚目で、
彼は牛の角を捕らえる。
 
6枚目で、
彼は牛と格闘する。
 
7枚目で、
彼は牛を征服する。
彼は牛の背に坐っている。
 
8枚目では、
彼らは家に向かっている。
 
9枚目では、
牛は牛舎に入り、
男は笛を吹いている。
 
これらの9枚の絵は1枚を欠いている。
それらは中国から来たものだ。


が中国のものには、10枚の絵がある。
それが日本にもたらされたとき、10枚目が捨てられた。
ひどく法外なものに見えたからだ。


そして、
その10番目こそが私のブッダだ。

その10枚目の絵の中では、
牛は牛舎につながれ、
そのブッダは酒壷を持って町に出ている。
 
日本人のマインドは、
これではあんまりだと思った。
酒壷を持ったブッダでは、
人がどう思うだろう、と。


これは普通の宗教的マインドにとっては
法外だが、
私に言わせれば、
全シリーズでこれこそがもっとも重要な絵だ。


それがなければ
このシリーズは不完全だ。



ブッダフッドを達成したら、
そのとき、人はごくあたり前の
人間になるはずだ。


酒壷を持って町に出るというのは象徴的だ。


それが意味するところは、
つまり、
もう坐って瞑想する必要はないということだ。


瞑想はすでにハートの中にある。
今や深刻になる必要はない。


見つけたかったものは、
見つけた。


今度は、
楽しむときだ。
その酒壷は喜びの象徴だ――
今や祝祭のときだ!


そして、
町以外のどこで祝うことができるだろう? 


瞑想のためなら森のなか、
山のなかに入って行けばいいが、
祝うためには町に出なければならない。


ディスコを見つけにどこに行くかね……?



いつでも
この10番目の絵を覚えていなさい。


9枚目で止まってはいけない――


9枚目は素晴らしいものではあるが、
まだ不完全だ。

もう一歩がある……、
ただ笛を吹くだけではたりない。


酔っぱらいなさい! 
そして、
狂ったように踊るがいい。



Osho - The Rebellious Spirit





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2016年03月23日

OSHOの講話⑫ 愛を生きる

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。

今日は如月満月
ここ数日は夕方~夜空も美しく、うっとりします。

昨日は、まっしろな十四夜が昇ってきて少し照らされるまで
外でつくしのはかまを取りました。

160323 14.jpg

さて、さきほど愛と恐れについての講話を読んでしまい
こちらにもアップしたくなりました。

もしかしたら、私たちにとっては

恐れよりも愛の方が曖昧かもしれません。

人は、不快や不足の方が

感じやすい、わかりやすい、発見しやすい。

ただそれだけの理由なのですが。

例えば頭痛がする場合、
頭痛がある間、痛みにフォーカスしてしまい
その間はいや~な思いがつづきます。

痛みは不快なので、簡単に恐れに転換されます。
なおらなかったらどうしよう、病気かも、など。

なので頭痛が一つの心配事項の上位になってきます。

しかし、

頭以外の体のそれぞれのパートは、

痛みに応じず機能してうごきつづけてくれています。

また頭痛といってもそのうちどれくらいの頭の部分が
痛みを伴っているかといったら
意外とせまい範囲かもしれないのに。

例えば、痛む頭以外に動きつづけてくれる身体すべてが
愛なら愛の方が断然ほとんどということに。

ということは

痛いところがない場合、常に愛にあふれている状態
といってもいいくらいなのです~

頭痛の間でも頭は仕事を続けているので
本当は常に100%愛であり、

痛みや不安と、愛とは、実は関係ないということになる!

これはたとえだけれど、そんな風に思えば
アクシデントや悩みも、足りない状況も

今受けている愛というものとは一切関係ない
ということになってきて、いいよね~♡

あ、これは、痛みを我慢しないといけない
不足を我慢しなければいけない
ということではもちろんありませんので~!

前置きが長くなりましたが、
今日のOSHOの講話です。

どうぞ観じてみてください♪

ーーー

愛はあなたに翼を与える。恐怖を愛に置き換えなさい。
大空、広大なもののことを考えなさい。

OSHO


恐怖の代わりに愛を生きなさい。

それらはまったく正反対のものだ。

人々は普通、愛と憎しみが正反対のものだと考える。

それは誤りだ。

そうではない。


愛と憎しみは同じエネルギーだ。

愛憎はひとつのエネルギーだ。

愛は憎しみになり得るし、それらは転換出来る。

だから、それらは反対のものでなく、補い合うものだ。

実際、私たちは同じ人を愛し、憎む。

それらはいつも一緒にある。

それらは敵ではない。

友人だ。


真の敵対は、愛と恐怖の間にある。

それらは決して一緒にはない。

もし、あまりにも恐怖に囚われてしまえば、愛は消え去る。

恐怖は愛に転換され得ないし、愛は恐怖に転換され得ない。

それらは転換出来るものではない。

唯一、愛だけが人を豊かにする。

恐怖は片輪にし、麻痺させ、麻痺すればするほど、

あなたはさらに恐れるようになる。

だから、それは悪循環だ。


愛はあなたに翼を与える。

あなたが生の中にくつろぐのを助ける。

様々な生き方で生を経験する勇気を与える。

愛は、あなたに生の全範囲を与える。

それは多次元にわたるものだ。

それは虹のすべて、生のあらゆる色彩だ。

だからまず、恐怖を落とし、もっともっと愛を受け容れ、

恐怖を愛に置き換えなさい。


そして第2には、大空、広大なもののことを考えなさい。


自由、無限のことを考えなさい。


小さなものごと、くだらないことを考えない。


愛にはすべてを犠牲にする用意がある。


愛はただ広大なもののことだけを考える。
posted by TARA at 10:53| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする