2015年12月15日

今日のOSHOの講話 4

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。


好きな講話が上がってきたので紹介します。

実のところ、「何様」になってたので自戒を込めて・・・^0^;

OSHOの禅スティックに打たれるのもいいね。。。

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質問

人々が相変わらずの古いゲームを何度も繰り返しやっているのを見ると、


私の目は、古臭くてうんざりしたものに感じ、私のハートは嫌気がさして


冷笑的になることがあります。


それは私が自分自身のゲームやトリックを、


ますます目にするようになったからだと思います。


そして、頭の中で狂わせるようなあなたの声が聞こえます。


「それでオーケーだ。


あなたはただ自分自身を受け容れ、愛さなくてはならない。


何も問題はない」


「ただ」ですって?


もしあなたがこの言葉をもう一度口にしたら、


私は悲鳴を上げると思います。


ゴールが存在すると思っていた時の方が、


私は幸せではなかったのでしょうか?



osho


質問はマ・デヴァ・アナンドーからだ。


これは意義深い。


この質問は、ここにいるほとんどすべての人のものだと言える。


耳を傾けなさい。


それはまさに、すべての探求者が


通り抜けなくてはならない状況を示している。


アナンドーは言う。


「人々が相変わらずの古いゲームを何度も繰り返しやっているのを見ると、


私の目は、古臭くてうんざりしたものに感じ、私のハートは嫌気がさして


冷笑的になることがあります」



どうか他人を監視しようとしないで欲しい。


それはあなたの知ったことではない。


彼らが古いゲームをやると決めたのなら、


古いゲームをやることを望むのなら、


古いゲームをやることで幸せなら、


それに口出しするあなたは何様か?


裁こうとさえするあなたは何様か?


絶え間なく他人を裁こうとするこの渇望は、落とされなくてはならない。



それが他人の役に立つことはない。


それはあなたを害する。


あなたを害するだけだ。


何であなたが悩まされることがある?


それはあなたとは何の関係もない。


他人が古いままでいたいのなら、同じ轍(わだち)の中を、


相変わらずのお決まりを動きたいのなら、それは彼らの喜びだ。


グッド!


それは彼らの人生であり、


彼らは自分達のやり方で生きる権利を持っている。



どういう訳か、私達は他人が独自のやり方を


持っているのを認めることが出来ない。


どうにかして私達は裁き続ける。


ある時は彼らを罪人と呼び、ある時は地獄に行くしかないと言い、


ある時はあれやこれやだ、犯罪者だと言う。


こういったすべてが変わったとしても、


今度は彼らが古いゲームをやっていて


「私はうんざりしている」という新しい評価になる。


何であなたが彼らのゲームにうんざりすることがある?


彼らがそうしたいのなら、自分のゲームにうんざりさせてあげればいい。


そうしたくないのなら、それもまた彼らの選択だ。


どうか他人を監視しないで欲しい。



あなたの全エネルギーは自分自身に焦点を合わせるべきだ。



あなたは自分自身を非難したくないので、ただのごまかしの為に、


他人をその古いゲームで非難しているのかもしれない。


それはつねに起こっている。


それは心理的なごまかしだ。


私達は他人に投影している。


泥棒はすべての人が泥棒だと思っている。


それは彼にとってはとても自然なことだ。


それが彼の自我(エゴ)を投影するやり方だ。


世界全体が悪なのだと感じれば、比べることで気分がよくなる。


殺人者は全世界が殺人者からなっていると考える。


それは彼の気分をよくし楽にさせる。


世界全体が殺人者からなっていると考えるのは都合がいい。


それなら彼は殺すことが出来るし、罪悪感を持つ必要はない。


良心の痛みを感じる必要はない。


こうして私達は、自分の中に見たくないものは何でも他人に投影し続ける。


どうかそれを止めて欲しい!


本当に古いゲームにうんざりしているのなら、


これこそが古いゲーム、最古のゲームだ。


多くの生に渡ってあなたはそれをやって来た。


自分の欠点を他人に投影し、気分をよくして来た。


そしてもちろん、それは大げさにしなくてはならない。


誇張しなくてはならない。


あなたが泥棒だとしたら、人々はあなたよりもすごい泥棒だと、


他人のイメージを誇張しなければならない。


するとあなたは気分がよくなる。


比べてみれば、あなたの方がずっとましな人間だ。


人々が新聞を読み続けるのはその為だ。


新聞はとても役に立つ。


朝早く、お茶も飲まないうちからあなたは新聞を待っている。


そして新聞には「ニュース」などない。


「新しいもの」などないからだ。


それは相変わらずの古いくだらない物事だ。


だがあなたは気分がいい。


どこかで誰かが人を殺している。


どこかでウォーターゲート事件があり、どこかでまた別のことがある。


どこかで誰かが盗みを働き、誰かの奥さんが


他の誰かと逃げてしまった・・・こんなことばかりだ。


そのすべてを見ることで、あなたは気が楽になる。


あなたはこう感じる。


「それじゃあ、私はそんなに悪くはない。


世界全体が堕落している。


私の方がずっとましな人間だ。


今のところ隣の奥さんと逃げたりしていない。


今のところ誰も殺してはいない。


それを考えることはあっても、


人々が実際にそれをやっているような世界では、


考えることなど罪ではないさ」


あなたは気分がいい。


そして気分がいい時には、あなたは同じままでいる。


どうか他人を見ないで欲しい。


それがあなたの役に立つことはない。


あなたのエネルギーを、観察を、自分自身に向けることだ。


そして観察には、何か途方もなく変容をもたらすものがある。


自分自身を観察するようになると、ものごとは変わり始める。


怒りを観察するようになると、ある日突然、


怒りが以前ほどのエネルギーを持っていないのに気がつく。


それはもうそれほど激しくはない。


その中の何かが死んでしまった。


自分自身を見守るようになると、


やがては否定的なものが死んでゆき、


肯定的なものがますます生き生きとしてゆくのを目にすることになる。


不幸は消え去りつつある。


至福が生の中に入って来つつある。


あなたはもっと微笑むようになる。


ときには何の理由もなく・・・ユーモアのセンスが生まれる。


見守れば、あなたは生をもっと陽気に受け取るようになる。


深刻さはますますそぐわなくなってゆく。


あなたはいっそう無邪気になる。


もっと信頼するようになり、疑うことはますます少なくなってゆく。


私は信頼がつねに尊重されるだろうとは言っていない。


いいや、それは要点ではない。


あなたはもっと騙(だま)されるかもしれない。


信頼すると、人はもっと騙され易くなるからだ。


だがたとえ騙されたとしても、それによって信頼が破壊されることはない。


実際、それは強められることさえあるかもしれない。


たとえ騙されたとしても・・・誰かがいくらかのお金を奪い、


あなたを騙したとしても・・・こんな風に思うだろう。


あなたは自分がはるかに価値のあるものを守ったのだということが分かる。


それは信頼だ。


そしてほとんど価値のないもの、お金がなくなった。


お金を守って信頼を失くすことも出来た。


その方がはるかに大きな損失だ。


なぜなら、お金だけで幸せを見出した者はいないからだ。


だが信頼のお陰で、人々はこの世の神々のように生きて来た。


信頼のお陰であまりにも全面的に生を楽しんだため、


人々は神に感謝を感じることが出来た。


信頼は祝福だ。


お金はせいぜい多少の安楽をもたらしはするが、


祝祭をもたらすことはない。


信頼はそれほど安楽をもたらさないかもしれない。


だがそれは、あなたに大いなる祝祭をもたらす。


さあ、祝祭に対して安楽を選ぶのはまったく愚かだ。


その安楽な生は安楽な死に他ならないからだ。


あなたは楽に生き、楽に死ぬことも出来る。


だが生の本当の味わいは、あなたが最上限、最大限に祝っている時、


あなたの松明(たいまつ)が両端からいっせいに燃やされている時、


初めて可能になる。


もしかしたらほんの一瞬かもしれない。


だがその強烈さ、その全面性、その全体性!


そしてこれは、観察によって初めて起こる。


観察は、変容のための最大の力のひとつだ。


自分自身を観察するようになりなさい。


他人を観察することでエネルギーを無駄にしてはならない。


それはまったくの浪費だ!


そしてそのことで、誰もあなたに感謝することはない。


それは報いられることのない仕事だ。


そしてあなたに観察される人は、誰であれ不快に感じるだろう。


誰も観察されたくはないからだ。


誰もがプライベートな生活を持ちたいと望んでいる。


いい人であれ悪い人であれ、愚かな人であれ賢い人であれ、


誰もがプライベートな生活を持つことを望んでいる。


干渉するあなたは何様だろう?


だからのぞき屋になってはならない。


人の鍵穴のところに行ってのぞいたりしてはならない。


それは彼らの人生だ。


彼らが古いゲームをすることを望みそれを好むのなら、


そうさせてあげなさい!


だからまず他人を見るのをやめて欲しい。


全エネルギーを自分自身へと転じなさい。
posted by TARA at 23:33| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3回目のコゴマフキンさんに出張してきました

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。


12/13日曜日、コゴマフキンさんへまたまたお邪魔しました。

リーティングのテーブルは

お客様とは隣り合って座ります~♡

151213 コゴマフキン (2).JPG

旦那さんの作品、ククノチ勾玉、

ぐうたら亭農業部のお米「めしあがれ」、

コズミックダイアリー2016、

ゴムの木の下におかせてもらってます~

151213 コゴマフキン (3).JPG

今回はランチ時間のご予約がなかったので

ランチプレートをゆっくりといただきました。

あっさりなのに独特な南インドテイスト♪


151213 コゴマフキン (1).JPG

見た目もお味もいいわ~^0^

今回の出張は、

珍しく男性のお客様が1番手に♪

1枚引きを受けてくれました!

それから、当日のお客様が沢山来てくれて。

ずっとリーティングを続けることができました。

こちらはセットののみものとデザート。

タロット読みの合間にいただきました。

プレーンラッシーと、
リンゴのケーキ&ハーブクッキー

151213 コゴマフキン (4).JPG

今回も一期一会に読ませていただきました。

エールになった方、

気づきになった方、

すぐにピンとこなかった方も

この時のカードのメッセージに

思い当たりますように♡


コゴマフキンさんいつもありがとう~

来年もよろしくお願いします☆
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posted by TARA at 19:47| Comment(0) | 出店記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月13日

今日のOSHOの講話 

タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。


昨日今日と2日間、タロット出張が続きました。

友達、知り合い、初めての方とご縁のあった方の
リーディングをさせていただきました。

私にも私の発した言葉が
還って来ていること

出逢ってくれた方の心が晴れて、
次の一歩が軽く踏みだせることに
エールを送ります!
ここはあえて言い切ってます^0^/

帰宅後に読んだ
OSHOの講話をシェアします。

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奇妙で矛盾したことに


聞こえるだろうが、


平和は、


痛みのただなかに


見出されるものであって、


それはけっして、


ネガティブなもの、


痛みをもたらすものと見なされた


なにかと闘ったり、


それから逃げたりすることで


見いだされるものではない。



たしかに、


臆病さを自覚するのは痛い。


恐怖を自覚するのは痛い。


怒りを自覚するのは痛い。 


これらはネガティブな感情だ。


だが、


平和が訪れるのは、


痛みを感じさせるものを受け容れ、


吸収することによってであり。


それを


拒絶することによってではない。



それを拒絶するなら、


あなたはどんどん小さくなり、


どんどん力を失っていく。


そして


内側での絶え間ない闘い、


絶え間ない内戦に


巻き込まれることになる。


そこで闘っているのは


右手と左手であり、


あなたは自分のエネルギーを


消耗させるだけだ。



これから言う


とても基本的なことを


覚えておきなさい。


心理的な痛みとの


交わりによってのみ、


それらの解放と超越の扉が開く。


心理的な痛みとの交わりが


唯一の手段だ。


すべての痛みを


受け容れなければならない。


それとの対話が必要だ。


それはあなただ。


それを超えるには


ほかの道はない。


それを吸収するのが唯一の道だ。



そして


それは途方もない可能性を


秘めている。


怒りはエネルギーだ。


恐怖はエネルギーだ。


臆病さもエネルギーだ。


あなたのなかに


起こることのすべてには、


大きな努力がある。


それは


大量のエネルギーを秘めている。


いったんそれを受け容れたら、


そのエネルギーは


あなたのものになる。


あなたはより強くなる。


より広大になる。


より大きな空間を


感じるようになる。


そのときあなたには、


より大きな内面世界がある。



これを理解しようとしなさい。


心理的な痛みは、


あなたが自分でこしらえるものだ。


臆病さは痛みではない。


臆病さがいけない、


臆病さがあってはならないという


あなたの考えだけが...。



痛みが起こるのは、


ある事実または


真実を前にして、


マインドが萎縮するときだけだ。


あなたは、


臆病さ、怒り、悲しみという


事実を前にして萎縮している。


萎縮してはいけない。


事実を前にして


萎縮することで痛みが生まれる。


自分の内側で


それを観察してごらん。


自分を


大いなる実験のための


実験室とするがいい・・・・・・。



人は


善悪を判断してはならない。


意識にあらわれたことがらに


ラベルを貼ったり、


そうしたことがらについて、


なにかの欲望や目標を


押し付けてはならない。


意識にあらわれることがらに関連して、


それを避けたいという気持ちや、


抵抗、非難、理由づけ、


歪曲、執着は、


まったくあってはならず、


かわりに


そこには無選択の気づきが


なければいけない。


そうすれば


自己との交わりが確立される。



無選択の気づき。


それはあなたの存在の内側の


神秘を空ける究極の鍵だ。


これは良い、


これは悪い、


とは言わないように。


良いというなら


執着が生まれる。


引力が生まれる。


嫌悪が生まれる。


恐怖は恐怖であり、


良くも悪くもない。


評価しないで、


ただそのままにしておきなさい。


そのままにしておきなさい。



非難も理由づけもなしに


ただそこにいれば、


その無選択の気づきになかで、


すべての


心理的な痛みは消える。


早朝の太陽に照らされて


水滴が蒸発するように。


あとに残るのは


純粋な空間、


汚れなき空間だけだ。


それこそが「ひとつのもの」、


それこそが「タオ」だ。



Osho - Unio Mystica

posted by TARA at 23:50| Comment(0) | OSHOの講話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする