タロットに聴いて心晴れるや♪
OSHO禅タロット読み人TARAです。
肉体をもったOSHOにお会いしたことはないけれど
なぜこんなに惹かれるのか・・・
前世なんらか修行をして、挫折したのかも・・・
と観じてます。
達成してたら、必要ないからね~
----
弟子はつくられるものではなく、
人はそれにならねばならない。
あなたが誰かを愛するとき、
あなたは先に
その人に尋ねるだろうか?
あなたは先に
その人に許可を求めるだろうか?
愛はただ起こる。
愛はどんな規則にも従わず、
許しなど乞わず、
どのような様式や方式も信じない。
弟子とは何だろう?
それはもっとも高く、
もっとも深い愛の名前だ。
もし、
あなたが私を愛したいなら、
どうして私に
あなたを止められるだろう?
もし、
あなたが私を愛するあまり
涙を流すなら、
どうして私に
あなたを止められるだろう?
そして、
あなたが私の言うところの
瞑想に飛び込むのなら、
どうして私に
あなたを止められるだろう?
弟子になりたがっている人を、
誰も止めることはできない。
そしてそれが、
誰かを弟子にするために
かつてあった
すべての形式を
私が廃止した理由だ。
なぜなら、
今は自分から進んで
私のところにやって来る人たちだけを
欲しいからだ....
他の道筋を
通ってくるのではなく。
今やすべての責任は
あなたにある。
例えば、
私たちは一年生に教える。
AはアップルのA、
GはガネーシャのGと。
実際には、
以前Gは
ガネーシャ“Ganesh”のGだったが、
今ではガッダ“Gadha”、
つまりロバのGだ。
それはインドが非宗教国家だからだ。
だから教科書に
ガネーシャ神の名前が出てくるのは
適切ではないというわけだ。
しかし、
ガネーシャもガッダも
Gとは関係がない。
それはただ幼い子どもたちを
教えるためのやり方にすぎない。
子どもはガッダやガネーシャの方に
より興味を持つ。
彼はGという文字には興味を示さない。
だが、徐々に、
ガッダは忘れられ、
ガネーシャも忘れられ、
Gだけが残り、
Gだけが使われるようになる。
もし、
あなたがAはアップルのA、
GはガネーシャのGという読み方を
し続けていたら、
あなたが大学に入るころには
勉強する機会がなくなってしまうだろう。
ひとつの文章を読み切ることさえ
不可能になる。
しかもそれを読み終えてから、
その意味が何であるかを
理解することは
難しくなるだろう。
なぜなら、
その文章のなかに
ロバとガネーシャとマンゴーが
いったいいくつ出てくると思うかね?
幼い子どもたちの教科書には
挿絵がある。
カラーの絵、大きな絵、
そして文字は少しだけだ。
そして学年が上がるにつれて、
絵は小さくなっていき、
文字の数が増えていく。
少しずつ、
絵はすっかり消えてなくなり、
文字だけが残る。
大学のクラスでは、
絵はなくなり、
アクシャル“akshar”、
文字だけだ。
私たちの言語である
このアクシャルという言葉は
またとても愛らしい。
それは、
決して破壊されないものという意味だ。
つまり、
ガネーシャは破壊されうるし、
ガッダは破壊されうるが、
アクシャルは必ず残る。
それが滅びることはない。
だから、
始めた頃は、
私は人びとを弟子にするために、
サニヤスへと
イニシエートする必要があった。
しかし、
いつまでガッダとか、
ガネーシャとか、
アップルとか、
パイナップルとかの
ジョークを言っていられるだろう?
今やサニヤスは成熟した。
今や形式は
重要な地位を占めていない。
これからは、
あなたが愛のなかにいるのなら、
弟子になりなさい。
それは話題にすることですらない。
今や、
誰かに知らせる必要すらなく、
サニヤシンになりたいと感じたなら、
なりなさい。
今や、
すべての責任はあなたにある。
これは成熟の証だ。
いつまで私はあなたとともに、
手を繋いで歩き続けられるだろうか?
私の手がもがれる前に、
私の方から
あなたの手を放さねばならない。
そうすれば、
あなたはあなた自身の足で立ち――
あなた自身の手を頼みとし、
あなたの責任に基づき――
歩くことができる。
いいや、
だからといって、
あなたが弟子になるのを
やめる必要はない。
また、
誰もあなたが
サニヤシンになることを止められない。
だが、今や、
それはあなたの内なる渇きと
呼びかけによって、
あなたがひとりで決めることだ。
私はあなたとともにあり、
私の祝福はあなたとともにある。
だが、
今や私は
サニヤシンになることについて
説明しないし、
瞑想するように
言わないだろう。
今や、
私はただこれだけを説明する。
瞑想とは何か。
たったこれだけで、
あなたのなかに渇きが
呼び覚まされるなら、
瞑想しなさい。
今や、
私は愛しなさいと
あなたに言わない。
今では、
私はあなたに愛と
他のすべてのことを述べるだけだ。
あなたのハートのなかに
歌がわき起こらないのなら――
ユニークで神秘的な
愛についての説明を聞いてさえ――
それを命じたとしても、
あなたからは何も出てこないだろう。
そして、
もし歌がわき起こってくるのなら、
与えるとか受け取るとかの問題ではない。
あなたは弟子であることができるし、
あなたは瞑想することができる。
あなたはサニヤシンになれるし、
あなたは光明に達することもできる。
あなたはかつてモクシャ、
究極の解放と呼ばれた、
この生の究極の宝物を
得ることができる。
しかし、
今ではあなたが
このすべてをやらなければならない。
誰かがあなたを後押しする時代は去った。
今や、
あなたはまったく自由だ。
あなた自身の願望、
あなた自身の歓び、
あなた自身のエクスタシーが
決定要因になる。
Osho - The Diamond Sword
OSHO禅タロット読み人TARAです。
肉体をもったOSHOにお会いしたことはないけれど
なぜこんなに惹かれるのか・・・
前世なんらか修行をして、挫折したのかも・・・
と観じてます。
達成してたら、必要ないからね~
----
弟子はつくられるものではなく、
人はそれにならねばならない。
あなたが誰かを愛するとき、
あなたは先に
その人に尋ねるだろうか?
あなたは先に
その人に許可を求めるだろうか?
愛はただ起こる。
愛はどんな規則にも従わず、
許しなど乞わず、
どのような様式や方式も信じない。
弟子とは何だろう?
それはもっとも高く、
もっとも深い愛の名前だ。
もし、
あなたが私を愛したいなら、
どうして私に
あなたを止められるだろう?
もし、
あなたが私を愛するあまり
涙を流すなら、
どうして私に
あなたを止められるだろう?
そして、
あなたが私の言うところの
瞑想に飛び込むのなら、
どうして私に
あなたを止められるだろう?
弟子になりたがっている人を、
誰も止めることはできない。
そしてそれが、
誰かを弟子にするために
かつてあった
すべての形式を
私が廃止した理由だ。
なぜなら、
今は自分から進んで
私のところにやって来る人たちだけを
欲しいからだ....
他の道筋を
通ってくるのではなく。
今やすべての責任は
あなたにある。
例えば、
私たちは一年生に教える。
AはアップルのA、
GはガネーシャのGと。
実際には、
以前Gは
ガネーシャ“Ganesh”のGだったが、
今ではガッダ“Gadha”、
つまりロバのGだ。
それはインドが非宗教国家だからだ。
だから教科書に
ガネーシャ神の名前が出てくるのは
適切ではないというわけだ。
しかし、
ガネーシャもガッダも
Gとは関係がない。
それはただ幼い子どもたちを
教えるためのやり方にすぎない。
子どもはガッダやガネーシャの方に
より興味を持つ。
彼はGという文字には興味を示さない。
だが、徐々に、
ガッダは忘れられ、
ガネーシャも忘れられ、
Gだけが残り、
Gだけが使われるようになる。
もし、
あなたがAはアップルのA、
GはガネーシャのGという読み方を
し続けていたら、
あなたが大学に入るころには
勉強する機会がなくなってしまうだろう。
ひとつの文章を読み切ることさえ
不可能になる。
しかもそれを読み終えてから、
その意味が何であるかを
理解することは
難しくなるだろう。
なぜなら、
その文章のなかに
ロバとガネーシャとマンゴーが
いったいいくつ出てくると思うかね?
幼い子どもたちの教科書には
挿絵がある。
カラーの絵、大きな絵、
そして文字は少しだけだ。
そして学年が上がるにつれて、
絵は小さくなっていき、
文字の数が増えていく。
少しずつ、
絵はすっかり消えてなくなり、
文字だけが残る。
大学のクラスでは、
絵はなくなり、
アクシャル“akshar”、
文字だけだ。
私たちの言語である
このアクシャルという言葉は
またとても愛らしい。
それは、
決して破壊されないものという意味だ。
つまり、
ガネーシャは破壊されうるし、
ガッダは破壊されうるが、
アクシャルは必ず残る。
それが滅びることはない。
だから、
始めた頃は、
私は人びとを弟子にするために、
サニヤスへと
イニシエートする必要があった。
しかし、
いつまでガッダとか、
ガネーシャとか、
アップルとか、
パイナップルとかの
ジョークを言っていられるだろう?
今やサニヤスは成熟した。
今や形式は
重要な地位を占めていない。
これからは、
あなたが愛のなかにいるのなら、
弟子になりなさい。
それは話題にすることですらない。
今や、
誰かに知らせる必要すらなく、
サニヤシンになりたいと感じたなら、
なりなさい。
今や、
すべての責任はあなたにある。
これは成熟の証だ。
いつまで私はあなたとともに、
手を繋いで歩き続けられるだろうか?
私の手がもがれる前に、
私の方から
あなたの手を放さねばならない。
そうすれば、
あなたはあなた自身の足で立ち――
あなた自身の手を頼みとし、
あなたの責任に基づき――
歩くことができる。
いいや、
だからといって、
あなたが弟子になるのを
やめる必要はない。
また、
誰もあなたが
サニヤシンになることを止められない。
だが、今や、
それはあなたの内なる渇きと
呼びかけによって、
あなたがひとりで決めることだ。
私はあなたとともにあり、
私の祝福はあなたとともにある。
だが、
今や私は
サニヤシンになることについて
説明しないし、
瞑想するように
言わないだろう。
今や、
私はただこれだけを説明する。
瞑想とは何か。
たったこれだけで、
あなたのなかに渇きが
呼び覚まされるなら、
瞑想しなさい。
今や、
私は愛しなさいと
あなたに言わない。
今では、
私はあなたに愛と
他のすべてのことを述べるだけだ。
あなたのハートのなかに
歌がわき起こらないのなら――
ユニークで神秘的な
愛についての説明を聞いてさえ――
それを命じたとしても、
あなたからは何も出てこないだろう。
そして、
もし歌がわき起こってくるのなら、
与えるとか受け取るとかの問題ではない。
あなたは弟子であることができるし、
あなたは瞑想することができる。
あなたはサニヤシンになれるし、
あなたは光明に達することもできる。
あなたはかつてモクシャ、
究極の解放と呼ばれた、
この生の究極の宝物を
得ることができる。
しかし、
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誰かがあなたを後押しする時代は去った。
今や、
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あなた自身の願望、
あなた自身の歓び、
あなた自身のエクスタシーが
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Osho - The Diamond Sword